雨だれ。(2) | 風に吹かれて マイ・ヴォイス

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なりゆきまかせに出会った話題とイメージで、「世の中コンナモンダ」の生態系をのんびり探検しています。これはそのときどきの、ささやかな標本箱。

 昨日このブログで 「雨だれ」について拙文をあげてみた。

 雨だれ(雨垂れ)が死語であるわけもないが、この「電脳」「バーチャル」時代に、「どんな風に受け止められているのか」気になって、パソコンなどでちょっとあたってみた。

 

 雨だれについてのまとまった、個人的に満足できるようなテキスト資料は見つけられなかったが、写真はあった。神社や蔵の屋根から盛んに落下する雨だれや、葉っぱの上に転がる雨だれ粒、それと、デザイン・イラストとしての雨だれ粒、などがすぐにでてきた。

 テキストが見つけられなかったのは残念だが、やはり雨だれのイメージはわるくないし、華やかではないが、世の中においてきぼりにされたわけでもないようだ。

 

 広重の東海道五十三次の浮世絵版画の「雨景」で知られる、大磯(虎ケ雨)、庄野(白雨)、土山(春の雨)の画面をよく見て、雨だれをさがしてみた。「雨」の線はさすがにみごとに表現されていたが、雨の二次的産物ともいえる雨だれは描かれていなかった。東海道シリーズ以外の絵はよく見ていないが――。

 

 拾いものだったのは「つらら」(氷柱)。

 つららは、「屋根の雪が融けた水が垂れ落ちる時点で寒気に晒されて氷結し、(以下略)」 と説明されている。雨だれ(雪だれ?)の姿を変えたもので、水の時間が停止したもの。

 自分としては、湖水も凍る(当時)寒い地方で育ったので、氷柱のことを忘れていたのは痛恨の思いだったが、拾いものだった。氷柱の観光名所も全国にたくさんあり、中には、散水して人工的に立派な氷柱にしているところもある。こうなると「アート」であり、これはこれでとても美しい。

 

 俳句では晩冬の季語であり、氷柱は古くは「垂氷」(たるひ)とか「銀竹」ともいわれたそう。

 手元の小さな歳時記(角川学芸出版編「今はじめる人のための俳句歳時記新版」、2011年)に4句ほど句があげられていた。勝手に引用させていただく。

     軒氷柱縦長に灯のともりけり   宮津昭彦

     氷柱痩(や)す刻(とき)のかけらを落しつぎ   渡邊千枝子

     永(ながら)へしうしろめたさの夕氷柱   鈴木多江子

     折りとりしつららが君へ光るなり   猪村直樹

 句心というものがまったくない自分にも、「雨だれ」とは一味も二味もちがう、「つらら」の冷たくシャープなイメージや空気が伝わってくる (自分にはちょっと難しい句もあるが)。

 

 いまウチの周りの雨は止んでいるが、昨夜はけっこう雨音が聞こえた。

 雨だれを調べてみると、音楽(とくにショパン)が目につくが、ここではこのへんで。