魂の磨き方など本来は余計なお世話であり不要のもの。
心の在り方は皆それぞれ異なるのが当たり前。
異なれば、それぞれの磨き方があって当然なのだ。
しかしながらこの心の在り方を他から学ぼうとする人はあまりにも多い。
信仰は太古からあり、神を崇め多くの宗教が誕生、心の在り方を示し、戒めもある。
家族単位で行動する狩猟採取の時代から集団行動に移るに従い、さらに農業が都市集落を築き、言語が統一されるにつれて宗教の輪郭が固められた。
日本では先住民族の信仰が存在したが、縄文時代、弥生時代を経て神道、やがて仏教が広まりキリスト教も伝来した。
大集落は学問、技術、産業を生み、分業が定着、家族単位の自給自足で賄ってきた暮らしは一変した。
土地の所有、農産物、家畜、持つ者持たない者から財産と言う観念も生まれた。
財産を守るために鉄器農機具は新たな武器に代わり、自衛と言う名目の紛争も多発した。
都市集落で生き、暮らしを守る為には力を合わせ戦うしかなかった。 そして紛争は国家同士の戦争へと発展。
戦争を生み出したのは集団生活を可能にした農業ともいえるが、歴史を遡って考えれば歴史を変えられる。
奪い合う農業を分かち合う農業に変えればよい。
農業が間違っていなければ変わるのは困難だが、間違っているなら必ずやれる。
世界の飢餓、貧困、病、紛争からの脱却・・やれると確信したから野人は協生農法を考案、実践した。
草と戦い、虫と戦い、病と戦い、集落同士、国家同士で戦わずとも済む農業だ。
協生農法の元になる協生理論、理解して使いこなせば人に頼ることなく一人でも集団でも生きて行ける。
贅沢な文化生活は無理でも食べて行くには困らない。
人はそもそも食べて生きる為に働いている。
基本的なことが困らなければ飢える心配がないのだから、あとは個々好きなだけ稼いで好きな文化生活を目指せばよい。
一人で生きて行けるなら、集団でも生きて行ける。
集団でしか生きられないのとは天地ほどの差がある。
教育はすべて集団で生きることを前提としそれしか教えない。
しかし、生き方は誰からも学べるものではなく自分で決めることだ。
飢えることなく誰もが一人でも生きられるなら、生活保護も失業保険も年金も必要でなくなる。
さようなものがない国、恩恵を受けられない人々のほうが世界には圧倒的に多い。
高校時から海山の獲物は獲れるし、必要ならお金にも代えられる。
まあ飢える心配もなく、人並みの物欲も皆無だったから就職には無関心で活動すらしなかった。
成り行きから仕方なく23年ヤマハに在籍したが、退社まで土地も家もなく貯蓄もなかった。
しかし一回くらいは失業保険、もらってみたかったな。
会社を興して20年、たいした利益もないから信条通り報酬は今も変わらず社員の最下位を維持している。
資本金4千万円の株式会社の代表でここまで徹底出来る者もいない。
利益が十分に出れば社長の最高報酬は当たり前、出ないのは社長責任だからまあ仕方ないだろうな。
最近、何とか「生活保護」額を超えたから嬉しい。
暮らしはそれで十分、月収は5万でも50万でもよい。
人は一人では生きては行けないと言う言葉があるように、知能が発達して考える能力が増すほど不安も苦悩も増す。
今では大勢の人達を巻き込み、助けられて生きている野人だが、一人で生き抜くことを前提に生きる信念は今も変わらない。
人間界の学問・常識に染まるほどそれらの歪に悩み苦しむ。
国によって異なり、時代によって移り変わるそれらはバブルのようなもの。
健全なる精神は健全なる肉体に宿る・・と言うが、どちらも健全な人はどれほどいるのか。
森羅万象の道理は普遍であり不変。
魂を磨こうなどと思ったことなどないが、野人の魂は自然界の他の生き物と変わらない。
自然界の道理が理解出来れば磨く必要などないと言うことだ。 歯磨きに歯磨き粉がいらないように、魂に磨き粉は不要。
だから人の心には介入せず、先導せず淡々と普通の単純な道理を説き続けている。
地球の理に逆らわず、間違えずに好きに生きれば誰でも魂は磨かれる。
魂は最初から異なるのだから磨かれ方も異なる。
慈悲の定義も、愛の形も、意思表示の表現も言葉も。
それらは物理ではないのだからだれも理解など出来ない。 素直に認めれば、それでよいではないか。
魂の嘆き
https://ameblo.jp/muu8/entry-11102754216.html
魂の行方 1
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神と魔とお野人と 2年前の今日の記事
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