元々葉っぱは好きではないが、この農園の野菜を食べた多くの人は驚愕して喜ぶ。
奇跡のリンゴと呼ばれるものもあるが、昔からヨーロッパでは肥料や薬も与えず剪定、摘果もせず放任した果樹は多い。
日本でも庭の柿やハッサクやキンカンなどそのようにしているはずだ。
ドイツ人のサラの実家のリンゴも昔から小粒でそれが当たり前だと言う。
ムー農園の野菜・・奇跡のソラマメ 奇跡のゴボウ 奇跡のニラ・・・と名付けるか・・
しかし、これが当たり前なのだからそんな大それた名も付けられない。
当たり前の野菜・・と言うのも妙だ。
普通の「野菜」でいい。
農業は野人のようなド素人にも簡単にやれる楽しいものなのだ。
畑を作る前から恐れ多くも農業理論の本まで書いちゃったし・・
哲学書でもなく野菜製造書でもなく大地と生き物の仕組みを説いた地球物理学書に近い。
だから、野菜の作り方、土壌の作り方など一切ないが、そのようなものは作れるものではないから当然と言えば当然だ。
どちらも作らずに農業が「業」として成り立てば問題ないだろう。
種さえ蒔けば植物は自らの力のみで育つ。
後は「余計な事」であり、野菜に工業、商業規格を押し付けるからややこしくなる。
「農」と名が付くからには「業」が成り立たなければ農業とは言わない。
農業は産業の始まりであり集落文化形成の中心、国家にはなくてはならないものだ。
自分の国の食糧は自ら賄うのが当たり前。
だから誰もが「職業」として自由に選択出来るものでなければならない。
それが出来ないのなら農林水産省も自治体も「農」の字を外したほうがよい。
農学も、生産者が経費と労力を費やしてもやって行けないおかしな植物製造法ではなく、誰がやっても「業」として成り立たせる道を示せなければ存在の意味がない。
農学とは職業として成り立つ「農法学」「農業学」ではなかったのか。
学者、職員、関連機関、業者、販売者の暮らしが成り立ち、生産者にしわ寄せが行く農学、農法など間違っている。
野菜が好きでもない素人の野人が新たな農業理論を作り実践しているのは、誰にでも簡単にやれて暮らしが成り立つことを証明する為だ。
一次産業の復興、環境、健康の復元を理念にこの会社を興したが、それらのすべての根源は今の農業の道理の間違いにあることは何度か述べて来た。
世界の常識とはまったく正反対の理論だが、真っ向からこの道理を覆せる人などいない。
理を自らの頭で判断すれば良いのだが、心が納得しないからこうして実践するしかないのだ。
今の農業書はまったく必要なく、経費も使わず、人も雇用、業として完全に成り立つことを必ず立証してみせる。
農学だけでなく、すべての学問に言えることだが、「学問の為の学問」であってはならない。
学問とは自らの為だけでなく人を導き、世を救うための術ではないのか。
これだけ大地も海も汚れ、健康を害し、人間も動物も苦しんでいるのだ。
すべては「分業」が招いた歪とも言えるが、保身を捨てて学会を再編成すべきだろう。
これから進むべき道は、敷かれた楽なレールではなく自ら切り開くものだ。
今回は1%ではなく100%の可能性を持ってこれを書いている。
この理を解し、志を抱く農学生、農学者を野人は待っている。
農業思考の転換期
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