もの心ついた小学校低学年の頃からこの年まで、忠実に本能を貫いた人間はおそらくいないだろうし、また一人も会ったこともない。
良い子の友人達はみな親の言うことを聞き人間社会に馴染んでしまった。
南西諸島で島民から海賊船長と呼ばれた20代も、漁労だけでなく船から双眼鏡で木の実を見つけては海岸から島に上陸、食っていた。
屋久島では猿の群れと縄張りを巡って喧嘩になったこともある。
当時の屋久島の住民は、人2万、猿2万、鹿2万と言われていたが、何匹来ようがニンゲンが猿ごときに負けるはずがないのだ。
猿と・・山のエサを巡って真剣にケンカする人間は屋久島にはいなかった。
百万坪リゾートのフィールド支配人時代は、広大な山林に数キロにわたる遊歩道を作り、沿道には木の実を配置、周年色んな木の実を食い続け、野人の縄張りを荒らした猪も罰としてしこたま食った。
猿や猪やサメとの戦いの歴史も・・理論に貢献している。
会議はことごとくサボり海か山、公私混同と言われようが「今忙しい!」と本能を貫いた。
今もムー農園には山から掘って来た多彩な木の実や山菜、薬草が配置されている。
国内に自生する木の実、山菜はほぼ試食、その分布も量も味も性質もわかる。
知り尽くし、食べ尽くたのは海洋や磯や淡水の魚介類や獣肉だけではない。
つまり・・・野人は・・人類学上貴重な・・
「生きた化石」なのだ。
人類は肉食か草食か・・「俺が見本だ」と言えば済むことなのだが・・
それでは世間は納得しないからこうして長々と道理を書いてきた。
腸や歯の機能、歴史、生態、植物の仕組み、毒性の比較、味覚、本能などあらゆる角度から、曖昧ではなくはっきりと答えを出した。
独自の理論に文献からの引用はないが、知識データは既存のものだ。
植物の研究を始めた20年前から近年まで、その素晴らしさから人類は本来草食ではないかとも思っていた、
しかし道理を追えば自らの思いとは異なり、どの方向から導いてもこのような答えが出る。
この中で一番確かなものは人の本能だ。
人の科学は進歩しながらも修正の歴史であり、基本となるデータは確かとも言えない。
野人は、化石のような自分の本能、子供達の本能を最も重要視する。
食べ物は、「生き物なら自らの体で証明出来る」が当たり前だからだ。
人ごとのように理で答えを出すものでもないだろう。
それは化石よりも生きた化石のほうが確かには違いない。
生まれ持って葉っぱが好きな子供もいるだろうが、人間は基本的に動物性タンパク質の他、木の実や果物は食えても、生の葉っぱを好んで食う遺伝子は持ってはいない。
そのまま生では食べられるシロモノではなかったから知恵で工夫したことだろう。
食べるとしたら、獲物や木の実が獲れないから仕方なく・・か、副食か薬用として食べていたのだ。
納得しないなら今の野菜ではなく、火もなく山菜しかない時代に時間を巻き戻して考えるといい。
巻き戻すと言っても長い人類史からすれば微々たるものだ。
そして旨いか不味いかではなく、食用か毒草かの判別が最優先。
情報ネットも図鑑も大集落もない時代、食うか食わないかは個々の判断だ。
食材の地域差、個人差はあるが、人は食の本質を持ったものなら何を食べても順応出来る。
加工食品のように持たないものでもそれなりに順応するが限度がある。
人間はせっかく食べにくい植物を食べやすい野菜に変え、新たな食文化を築いたのだからせめて子供達が抵抗なく食べられる野菜の育て方をすべきだと思うのだが・・
古代人のようにタンパク質を食い溜めするよりも、加工食品を規則正しくバランス良く食べるよりも、体が求める時に、適度な魚介や本質を持った野菜を生で摂るほうが人は間違いなく健康で長生き出来るだろう。
体が3食求めること自体が本来のセンサーが狂っている証拠なのだ。
柔らかく食べやすく加工する、消化を良くしようとすることもその中に入っている。
消化が早ければ空腹も早く腹が減るのは当然ではなかろうか。
適量、適正栄養バランスであろうが今の食品を3度も食えばメタボにもなるだろう。
人間ほど体に頭と気を使い、いたわる生き物は他にいない。
あれこれ心配することは生き物と食の本質が見えていないとも言えるのだが、それが当たり前のようになった世の中だ。
母親も、食べさせようと努力する力を野菜そのものに向けたほうがよい。
そうすれば大人も本来の健康体に戻れるはずだ。
葉っぱの話は・・・もう あきだ やがて ふゆ
・・だな
そのうち はる・・春よ 来い
続く・・