植物の使命と肥料の循環 3 | 野人エッセイす

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森羅万象から見つめた食の本質とは

鳥羽の友人の多い漁港だけでなく、野人の生まれ故郷の村の漁業もまた数十年前に消滅した。

祖父の実家は網元で、野人は漁網の寝床とアジのすり身で育った。

数年前帰郷した時、漁港に漁船はなく、新しく出来た立派な防波堤は釣り人天国になっていた。消滅した漁港にこんな立派な防波堤は必要ないだろう。

潜った海底は見る影もなく、当時の豊かだった海は何処にも見当たらなかった。

工場もなく、人も減り、透明度は素晴らしいのに海には生命が乏しい。

地引網で大漁の魚が跳ねた浜もまたヘドロが堆積していた。

野人は故郷の海を失ってしまった。

化学工場もなく、豊後水道に突き出た豊かな海でさえ農業用水と生活排水で変貌してしまった。

同じ市内でも市営船で1時間半、道路は開通したが1時間近くかかる僻地なのだ。

国内有数の漁場、伊良湖水道を有する伊勢湾や鳥羽、外洋の志摩でさえも例外ではない。

自然界の自浄能力は限界を超えている。

人が放棄した農地にメダカやホタルが戻って来るように、放棄した海にも必ず魚や貝は戻って来る。それが森羅万象だ。

「海や川を汚さないように」をスローガンに、排水規制を設け、活動を続けるにもかかわらず汚染は加速している。

この実態を多くの人は本当に理解しているだろうか。

汚水のように、見える汚染に人は過敏に対応するが、見えないものにはそうではない。

野菜や果物然り、川の浄化においても美観や透明度を重視する。

見るだけなら動物でも出来る。

人が人である為に最も大切なことは「心の目」「知性の目」ではないだろうか。

豊かな海が大地と森を育み、豊かな森と大地が海の生き物を育てる。

森は、大地は・・豊かだと言えるのだろうか、そこに暮らす人々は・・・


生命の乏しい美しい海
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