ベクトルとは大きさと方向を持つ数学用語だ。
事を成したり、答えを求める時の野人の思考回路は数学の考え方そのもの。
心は自由なものだが現実の行動にはすべてはっきりした答えが返って来る。
「成るべくして成る」は数学物理の基本だ。
思ったような答えが返って来ないのは「思う」からで、思ったことに道理がなければ答えが出ない。
「健康」を例に挙げるなら、一般的には健康を目指して努力する。
その時のベクトルの基点は、健康を害したか、もしくは害したくないと言う位置だろう。
つまり、病気になったか、なる前の予防だ。
その位置から健康を目指して思考が始まる。
健康食品や機材が氾濫、あらゆる病気に対する情報が溢れているにもかかわらず、決定打と言うものは見当たらない。あるのならそれで終わり、他の商品は売れなくなっている。薬品もまあ似たようなものだ。
野人の思考におけるベクトルはまったく逆だ。健康を願って、現在地から健康に向かってベクトルを伸ばす事などない。
船を例に挙げるとわかりやすいが、現在地、目的地が明確で、航法に間違いがなければ無事に到着する。自船の能力、途中の海況を把握して、後は操船技術次第だ。
病気から健康に向かう場合、目的地は健康だが、そもそも健康とは何か理解しているのだろうか。
そのようには到底思えない。
各自が健康とはこのようなものだ、当たり前ではないかと思っているように見える。果たしてそうだろうか。
言葉の定義ではなく、人はどうやって健康を維持する仕組みになっているのかわからなければ意味がない。
健康とは言葉ではないのだ。
五体満足と言えばそれまでだが、五体満足は偶然ではない。ちゃんとした道理があって維持出来るものなのだ。
野人には健康と言う定義などはなく、生きていく上で当たり前のことなのだ。
自然と言うものが当たり前のように健康も当たり前、だからベクトルは健康に向かわない。
あえてそれを望むならそんな言葉は通り越し、人類の歴史、生命の成り立ち、地球の歴史まで遡る。
そこを基点に思考ベクトルは始まる。目的地は現代だ。
途中「健康」などと言う停車駅もない。
そうすれば何処が生命の理に適っていないか、何処で間違いを犯したかすぐにわかる。
何度も書いたが、余計なことをしたか必要な事をしなかったか、これしかないのだ。
そうやってこれまで多くの常識の矛盾を解明してきた。
自然界、生命の道理を知らずして、病気から健康に戻れるはずも無い。
無数にある医薬品、健康食品に器材、健康法など、生命の本質を知らずしてどう判断するのだろうか。
判断とは物理数学であり根拠があるものだ。
その根拠は生命の起源にあり、それがわかれば判断はいたって簡単。
野人は薬物を始めそのようなものを必要としない。体が引きつけを起こしてしまう。
人は自然界に存在しないものに頼りすぎるようだ。