病気にならない方法「原因と対策」2 | 野人エッセイす

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森羅万象から見つめた食の本質とは

いくらバランスよく栄養を摂ろうが、規則正しく食べようが病気とはたいして関係もない。

生き物も含めて人間は進化の過程でそんな恵まれた時代などないからだ。

真冬には野菜もなく、その土地でとれるものさえ食べていれば体は順応して行く。

病気の原因は「本来の動植物を食べないこと」にある。

他の動物は人間のように多彩ではなく限られたものしか食べていない。

人間の食性は歯が示しているように肉食用の犬歯は上下4本、他は穀物や木の実をすり潰す臼歯と草食の門歯だが何を食べても構わない。

目的ごとの歯の比率でも良いが、毎日焼き肉を食べようが不自由する歯でもない。

長年植物を研究した野人から見れば今の野菜は本来の植物とはほど遠い。

異論はあるだろうが、視点を持って徹底的に研究しないとわからないことだ。

「農業」「植物」の世界の中だけで見れば気づかないだろう。

全種の野菜と山菜などを混生、多様な実験をして観察すればそれがわかる。

肥料をたっぷりやるのは養殖の魚とまったく変わらず、育つ環境も人が作っているのだ。

毎回耕し、色んなものを投入、今では化学薬品を最後まで使わず大量生産するのは至難の技になっている。

これらは養殖野菜であり「加工食品」の部類に入る。

昔から野菜はこうして「作る」ものだという常識があるからピンと来ないだけなのだ。

植物はおろか細胞一つ人間は作ることが出来ない。

科学は野菜を早く大きくすることは出来たが、余計な事をし過ぎて植物の本質を失わせたようだ。

野人が明らかに違うと判断したのは「レタス」がきっかけだ。

キク科のレタスはヨモギと同じで虫は食わない。

野人農園のレタスは農園全面にところ構わず生えているが、虫の多い6月でも穴一つ開いたことはないのだ。

おそらく1万株以上はあるだろう。

しかし秋に買ってきたレタスの苗を植えてみたところ虫に食われて1週間でほぼ全滅した。

肥料で早く膨らませた苗は本来のものと異なりレタスの本質を正常に保ってはいない。

虫にかじられながらも自然の土壌に根を張り生き残った何本かのレタスはそれからはまったく食われずに育っている。

「虫も食わない野菜」は異常と言う人もいるがそうではなく食われすぎるのが異常なのだ。

虫は草も野菜も同じように食べるが、農園で困るほど食われた野菜などはない。

キャベツも青虫一匹殺さず何もせず、何百何千個でもほぼ収穫出来る。

キャベツは青虫駆除が絶対と信じ込んでいる人が大半だが、信じてくれと頼んでいるわけではなく野人が出した結論を述べている。

色んな人にレタスなどを食べさせたが市販のレタスとは明らかに異なり、即効性で活力と便通が強烈だ。

胃腸が活性するのだが同じ力が今の野菜にはないのだ。

化学肥料の野菜は当然だが、美味しい有機野菜にもそれがない。

犬や猫も体調を崩すと普段食わない草をかじるが、肉食に生きても本能を失っていないからだ。

そこから導かれた違いの理由は、肥料で「早く大きく膨らませる」ことだった。

だから化学肥料も有機肥料も差が出なかったのだ。

肥料が少ないほど、大きくしないほど少しはマシにはなるだろうが完全な植物の本質は維持出来ない。

その適正な量を人間は永久に算出する事は出来ないだろう。

何故なら植物は同じ種でも種の固体によって皆違うからだ。

同じ時期に同じ場所に同じ種を撒いても成長の過程は異なり大きな差が着く。

耕して同じように肥料を入れればその差は縮まり、全国何処でも同じように育つ。

同時期に収穫して商品にしたい人間にとって肥料は魔法の薬だろう。

だから肥料なしで農業は語れなくなってしまったのだ。

「早く大きく」と言う技術は魚や肉にも及ぶ。

大勢の食を支えるにはやむを得ない事だが、短期で食卓に上がるブロイラーと時間をかけた地鶏、4年で育つマダイやウナギを1年に縮めた養殖、運動を控えて毎日草以外の色んなエサを食べさせる霜降りのブランド牛、これらを「健康的な食品」と言い切れる人はどれだけいるだろう。

人間に同じことをすれば体重は小学生で100キロを超えるのではないだろうか。野人もそれらの食品を食べるが、「便利、安い、美味しい」と「健康」は別物だ。

野菜にもそれとまったく同じ事が言える。

米や味噌醤油、ソース、豆腐なども含めて野菜は必需品であり、最も大量に日常的に口にするものなのだ。

人間の科学は「便利さ」と引き換えに野菜の本質である本来の生命力を奪ってしまった。

生命力がおかしいから40年前と比べて、見た目は立派でもビタミンなどは激減、ひどいのは半減している。

それは周知の事実でも科学はいまだその理由を解明していない。

生命力の存在がわからず検知出来ないからだ。

科学がわかろうがわかるまいが違いは歴然としている。

自然界は人のわからないことのほうが圧倒的に多いのだ。

科学絶対主義は科学と心中するリスクも負っている。

わからないから存在しないと言うことはない。

その道理が通れば明治時代は存在しないものがあまりにも多すぎると言うことになってしまう。



具体的対策 3に続く