野人のピラミッド農園の面白さ | 野人エッセイす

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森羅万象から見つめた食の本質とは

野人の実験農園にはほぼ全種の野菜、果樹、ハーブ、山菜薬草、木の実を配置、混生、群生、草との共生実験をしている。量産が目的ではなく、冬場の草マルチ、むき出しの土、形状の異なるうね、野菜と常緑樹、落葉樹との相性など数百項目にわたって探求している。見る人が唖然とするくらいだからおそらく世界に二つとない農園だろう。さすがの野人も、何処がどうだったか忘れてしまうことが多い。年間を通して「発見」だらけでそれだけ感動が多いのだ。こちらの野菜はこうだが、この組み合わせだとこうなるのか、「なるほどなあ」と感心することが多い。そうなるには必ず理由があり、土を知るほど、草を知るほど面白い。農業とは草を知り、草を活かし、草と共に生きることだ。そこに集まる虫や鳥や動物も同じことが言える。人間ではなく彼らが農業をやると言う考え方は一貫している。植物の誕生に何も出来ない人間は、どこでどのように手を出すか、どの方法が一番効率よく楽が出来るか考えれば良い。それが人の知恵であり、物理学、科学の真髄だと思っている。野人は「野菜を作る」などと大それたことは考えない。森羅万象の仕組みを知り、何十年も海と山と川にどっぷりと浸かり、全ての魚介類、植物、動物を知り尽くし、食べ尽くしたからこそ生まれた哲学だ。

根気よくじっと観察していれば農法はすべて彼らが教えてくれる。「どうやって作る?結論だけ教えて」と言う人があまりにも多すぎる。農業は製造業ではないのだ。本質を求めないせっかちな効率思考が農業の悲惨な現状を招いた。それが物理数学的には最悪の効率と言うことに誰も気づいてはいないようだ。野人は野獣に近いがバリバリの理工系だ。簡単な生産方程式を説くのだが、誰もわからないのが不思議でしょうがない。世の中に不思議な事などはないと断言しているのだがこれだけは例外のようだ。不思議なものは人間だけと言うことになる。全ての学問は自然界から生まれた、科学も数学も物理も。農業は野人が感心するほどバリバリの数学物理学なのだ。原点に戻る事が出来ないから難しいのだろう。農業に先入観のない数学者、物理学者が野人理論を聞けば生産効率の良さはすぐに理解できるはず。

野菜に手は出さないが、この農園を作るのには相当の研究をして設計図に時間を費やした。農法も生産量も方程式を組み立て、何日計算を繰り返し電卓を叩いたかわからない。野人の図面を見た人は愕然とする。細かい文字がビッシリ埋まっているのだ。数値表は何枚にも及んだ。仙人の放任栽培自然農法ではなく、近代農法の「10倍以上の生産量」で、一切何も持ち込まない「完全なる循環農法」が目的でやっている。農業をかじった人ならそれがどれほど大変で困難なことかわかるだろう。農薬肥料堆肥はおろか石灰もいらない、耕運機も必要なく、最初の施工以外クワも必要ない。クワも使わない農業など100人が100人とも不可能だと言うはずだ。世界で誰もやっていないのだから。それで、面積あたりの生産量が近代科学農法の10倍以上の自然農法など誰も信用するはずがないのだ。だから農学者も膨大な野人理論の一箇所すら否定出来ないが荒唐無稽に感じて理解出来ない。ピラミッド農法はいまだ未完成だが、何の問題もなくその通りに進行している。不可能と断定するのは自らの可能性を否定する事だ。ヤマハの総帥川上源一は野人に1%の可能性をこじあける術を教えてくれた。野人農法は彼の遺産とも言える。農業から出た農業ではなく「地球学」から生まれた農業だ。立派な野菜は作ろうとしなければ出来ないが、健康で美味しい野菜は作ろうとしなくても出来る。経費も労力もかからず高齢者でも無理なくやれる。野人はこれが過疎化した農山村を救い、荒廃農地を修復、都市への集中をくい止め、日本の食糧自給率を上げると信じて研究を続けている。