ミャンマーの被災者の生きる道 | 野人エッセイす

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森羅万象から見つめた食の本質とは

ミャンマーのハリケーンによる被災者の映像が流れている。軍事政権に見つからないよう民間人が隠し撮りした映像だ。被災から相当経っているがいまだに物資が届かず混迷している。画像ではいたるところに腐敗した遺体が放置されていた。日本では考えられない事だが、数が多すぎて絶望感と空腹でどうする事も出来ないのだ。ここ数年、ジャワ島津波や中国の大地震でも人の無力さを感じているはず。国内でも神戸大震災をはじめ災害が頻発している。国を挙げての早急な救助、援助活動が行われるのだが、それでも当事者には相当な苦難がある。ミャンマーの映像では政府も誰も助けには来ないのだ。アテにはならない時人はどうすべきなのか、日本でも明日のことは誰もわからない。自分の存命中や子供達の時代には絶対にそんなことはあり得ないと思っているように感じる。災害を目の当たりにしたり東海沖地震の噂が流れると「災害グッズ」が売れるようだが、そんなものは何の役にも立たない。ミャンマーでは家の跡形もなく体一つなのだ。地球は数万年単位で大変動を繰り返してきた。それが明日来ても不思議でもなんでもない、人はいまだに予知が出来ないのだ。日本の半分は遮るものもない太平洋岸だ。想像を絶する地震や大津波が来れば全滅する。交通も遮断され、救済も援助もままならなくなる。丸裸にされても生きてゆかねばならないのだ。文明だけに依存する人はあまりにも脆過ぎる。人である前に動物として生きる術を持ってはいない、野人は幼い頃から狩猟採取にあけくれたが、それは趣味と言うより「本能」なのだ。自然界はどんな生き物でも水やエサの確保から覚える。知能が増すほど親がそれを子に教える。次に「遊び」を通してのコミュニケーションだ。だから人が育てたトラやライオンは野生には戻れない。

野人にとって、子供の頃は家業の食品店の食品よりも海や野山で自分で獲ったもののほうがはるかに美味しくて嬉しかった。今も人の本能には「獲りたい願望」が残っているはずだ。小学校の授業で「将来なりたい人間」を発表、皆はリンカーンやエジソンなどの偉人、あるいはパイロットや運転士などの職業を挙げた。野人は「自分で食い物がとれて一人でも生きられるような男になりたい」と言ったら大爆笑だった。「夢がない」とも・・。夢は色々あったが、将来何をやりたいかなど見えてこないだけだ。小学校では将来がどうのと言うよりも、人間として生きて行く為の「基本」を身につける時期なのだ。今は親の都合でレールを敷き、いい学校、一流会社を目指して塾へ通わせるのが当たり前になっている。そんな物心つかない頃から「競争」を煽れば、コミュニケーションなど無縁な人間になり、無機的な犯罪が増えるのは当然だ。親までが子の犯罪の犠牲になっている。何ともおかしな世の中だ。

十代の頃には、文明社会に身を置いてもいつかは自力で生きなければならない時は来る、悔いも未練も残さず今日を生きようと思っていた。人は動物である事には変わりないが人間なのだ。本能も人間としての誇りも失わずに生きることが一番大切なのではないだろうか。