大陸的思考で漁業農業を | 野人エッセイす

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森羅万象から見つめた食の本質とは

一般的に日本人が食料を量産する時、漁業にしろ、農業にしろ、その考え方は似通っている。ミクロの世界まで技術を極めるのが得意な日本人に対して、大陸的な思考はまた少し異なる。魚の養殖の例を挙げるなら・・・

三つの池で、大魚と小魚と海老を各千匹養殖するとするなら、日本人は種別に分けて育て元の数だけの収穫を目指す。 実際は大魚と小魚と海老では養殖数に大差があるが、ここでは考え方だから1千匹に揃えて考える。

日本人は、生態にあった環境作り、餌、病気対策など、歩留まりを高めるために全霊を傾け、こまめに観察し、世話を惜しまない。そして効率よく同時期に出荷する。今の農業もほとんどこの考え方だ。

大陸的な思考は違う。数学で言うなら「消去法」で、余計なことは削除する。物理学で言うなら最低限の力で最大の効果を出す。最低限やらなくてはならないことだけやって後は座ってタバコ吸うなり他の仕事に精を出す。そこに可笑しさを感じるのだが自然界の道理には適っている。だから「漁夫の利」などという言葉が生まれる。どちらが優れているかは優劣付け難いところもあり一概には言えず対象物にもよる。大陸思考は漢方の考え方にも似ている。大陸的思考は、それぞれ同じ数だけ池に入れて放っておくだけで収穫まで何もしない。それぞれの池に3等分同量に入れると、海老は小魚の、小魚は大魚の餌になり食われ、大魚だけ食われずに残る。食われて生き残るほうも成長するから食い尽くされることはなく、そのように計算して入れる。生態のバランスも良く、本来の活きた餌だから病気は発生しない。結局、後は何もせず水の管理と鳥避けネットを張るくらいだ。大陸思考は、自然死や共食いを入れて、大魚9百匹、小魚5百匹 海老3百匹を水揚げ。日本人のほうは病気や共食いなどに悩まされながらも各8百匹。経費は、日本人の方は養殖の現状から行けば半分以上は餌代で、さらに薬代がかかり、これに連日の労力が加わるが、大陸的手法は何もかからない。大陸思考は最初から単価の高い大魚は減らないという計算があり、餌の手間を考えると海老は最初から計算に入れず、餌として考えている。生き残れば儲けものだと、つまり余禄だ。年間のえさ代と手間を考えたら、海老の卵の方がはるかに安い。しかも「自動給餌器」と同じだ。さらに「自然の理」を活かし、海老が卵から孵化してから小魚を入れ、小魚が少し成長してから大魚を入れる。餌を増やし生態系を保つ為にタニシやドジョウやメダカなど雑魚の卵や藻も増やす。ドジョウは水草の新芽を食べ、魚の糞尿のリンで藻が増えるがタニシは藻を食べる。そして大魚の餌にもなるしドジョウもタニシもどんどん増えてゆく。藻や水草が増えればトンボや水生昆虫などが飛来し、さらに卵を産むから餌も増える。海老はプランクトンだけでなく、水の掃除屋と呼ばれるくらい魚などの死骸も食べる。このようにうまく自然形態を利用する。何もしないようでちゃんと考えている。

面白いのは、小魚も海老もその他も成長するから「餌の目方も全自動で増える」ことだ。比較しやすいから数を揃えたが、実際はもっと細かい計算が必要だ。利益に大きな差が出るが、大陸思考がその間しっかり他の仕事をしていれば、生産効率の差はさらに広がる。ドジョウやタニシなどの効果があるほど水揚げもドジョウ登りに増える。さらに味など品質を比較すると比べものにならない。今の農業を見ているような気がする。本来の健全な食品を作るか、色や形の立派な野菜に精魂込めるか、後者を選んでいる。

農業も大陸的思考で余計なことはしないほうがいい。その商品が売れないなら、何故本来の美味しいものが売れないのか原因を考え販売努力をすべきだ。消費者の顔色を伺うのは危険で、産業をも自らをも滅ぼしてしまう。消費者は生産者を信頼している。それに答える為にも生産者の方から本来の食品とは何かを発信すべきだろう。生産者名や写真を明記しても、その食品の品質や安全性とは無縁のものだ。消費者もそこを見誤るとツケは自分達に返ってくる。