おとつい、買い物をしに難波に出かけた帰りの電車はアルゼンチンのサポーターのため、満杯だった。この時間帯でこれだけぎゅうぎゅうなのは初めてだ。朝のラッシュ時レベル。

車内で至近距離にいるアルゼンチン人にかつて南米を旅した時に覚えたカタコトスペイン語で
「De donde eres?」(どこからですか?)と話しかけようとしたが、勇気が出ずにやめた。

異国での緊張が和らぐかな、と思ったのだけど、よく考えれば彼らは集団で来ているのだから余計な心配だった。

自分がひとりでアルゼンチンなどの異国を旅していたとき、かの国で有名な日本人の名で呼びかけられたり、日本語でなく簡単なスペイン語でも親しげに話しかけてくれる人がいたらうれしいものだった。

逆に、自分から地元の人に話しかけたら一人旅のアジア人が珍しいのか、すごく喜んでくれる人もいた。帰国してからネットを見ていると、そのころアルゼンチンでは外国人の友達を作るのがはやりだったらしくて合点がいった、笑。
特に学生の街と呼ばれるコルドバでその傾向が強かったような。。街がら、英語がしゃべれる人もある程度いる。


でも、これって、日本でも同じだな、と思いました。国内でも、知らない集団の中に入って行って、交流がはじまったら、最初は緊張する。
集団の中でじゃなくて一対一だったらなおさらかもしれない。
その場合は、いきなり仲良くなろうとせずとも、カフェでコーヒーでも飲みながら、すこしずつ相手のことを知り自分のことをしゃべっていけばいいのだと思う。
その結果、どのような交流になるのかどうかは展開次第。

月初めに出たあるセミナーの懇親会ではその分野での大御所のそばにはべり、話は楽しかったものの、実際は自分的にはけっこう無理をしてがんばっていた、はた目にはわからないだろうけども。
でも、こういうのも滅多にない機会なので、食事後の会計の時も、自分の中ではけっこうがんばったほうなのだ。

アルゼンチンの旅行でも、時間に余裕があれば、仲良くなりかけた人と友人になれたかも。
その意味でも一度どこか海外に留学したかったなぁ。。
今年は随分と上京した。

十回、、、いやひょっとして二十回。。は、いってないか。

ともかく、人生で一番上京をすることが多かった年。

(金)土日と週末泊まりがけで関東に用事があることが多かったのだ。


用事を済ませたあとは、決まって、どこで夕飯を食おうかと夜の東京の街を徘徊することになる。
これって、南米旅行をしていて適当な夜飯屋を探して歩き回っていたときと、一人で寂しい気分がかさなる。
まだ東京では言葉が通じるだけ寂しさはないけども。

誰か東京でおすすめの食事店を案内してくれる人がいたらなぁ、、
関東にはそうしてくれるような友人知人がいない。
高級店でなく、また激安店を求めているのでもないが、せっかく東京に来ているのだからガイド本に載っているのでないような、そんな店やカフェにせっかくの機会に行ってみたいものです。。
友人に、昔行ったボリビアのウユニ塩湖の写真を送ってくれと頼まれ、写真を探していたら同じ塩湖でもベネズエラのそれが出てきたので、せっかくなので気まぐれに記事にしてみます。

Cumanaクマナというトヨタの工場がある港町から、フェリーでAraya半島にあるArayaアラヤという港町へやってきました。(クマナの宿では日本人らしき人も泊まっていました。観光客っぽくなく、トヨタの人だったんじゃないかと思います。)

この町の見所はArayaアラヤ塩湖と、サンティアゴ要塞です。
以下、シンプルに写真を列挙。

↓遠くから見た塩湖。


↓その場での写真。





塩湖を、しきいで区切ったプールへ引き込んで、ベネズエラの熱い太陽で乾かし(毎日が今の日本くらいの気温です)、精製して、ベネズエラ人の食卓に上がっているのでしょう。ガイド本「ロンリー・プラネット」によると、政府管轄の会社らしいですが、ツアーなどは催行していないので独りでだだ熱い中を歩き回りました。



↑ピンク色なのは、塩湖に住む顕微鏡レベルの微小な大きさの海老の色だそうです。






次にサンティアゴ要塞です。
要塞の脇は海水浴場になっています。
↓遠くから見た要塞跡。



廃墟となっていて、観光化もされていないので入場料などなく好き放題歩き回れます。
↓要塞の上部へ上がってみました。



この地では、塩に最初に目を付けたのはオランダで、スペインはその間、周辺で採れる真珠の方に血眼になっていたようです。やがて、16世紀中頃に真珠が尽きると、オランダとイギリスとスペイン、さらには海賊との間で幾度となく塩の争奪戦が行われ、その時分にスペインが築き上げたベネズエラ国内最大にして最古の要塞が、このサンティアゴ要塞です。
その後、1726年の大きなハリケーンの被害で塩湖がダメになってしまって、スペインはこの地を放棄することにしましたが、他の外国勢力の手にこの要塞が渡るのを嫌って、爆破してしまいました。しかし、50年もかけて築いたこの屈強な要塞は完全に破壊されることなく、現況のような状態となって残っているというわけだそうです。
(ちなみにその後、塩湖は少しずつ元の状態に回復し、現在もベネズエラ人の塩の需要を満たしています。)


最後に、この港町の一風景を。
港町だけあって、採れた魚の売買が路上で行われていました。



泊まった宿の人も親切でした。
なんでも、この町では名士だそうです。
「この家名を知らないのかい?この町でうちの家を知らない人はいないよ!」
(注:意訳)
などと言っていました。
懐かしい思い出です。