開運の方法に、占術的なものと、霊的・人格的成長あるいは内観による気づきによるものに分けるとすると、前者は後者のような人間としての成長なく、自分の心の枠組みや構造はそのままで実利をもたらすような、そんな印象を受ける。
でも、前者によって現実的な利益を得て、後者のような成長がしやすい環境に身を置きやすくすることもできるし、両方とも大事なのだろう。
開運の方法に、占術的なものと、霊的・人格的成長あるいは内観による気づきによるものに分けるとすると、前者は後者のような人間としての成長なく、自分の心の枠組みや構造はそのままで実利をもたらすような、そんな印象を受ける。
でも、前者によって現実的な利益を得て、後者のような成長がしやすい環境に身を置きやすくすることもできるし、両方とも大事なのだろう。
久々に徒然。
以前能力者の方からチンギス汗は義経だったと聞いていましたが、ネットでホラズム帝国を滅ぼしたインダス河の戦いのエピソードを読むとなおさらそうなんだと思えてきた。
ホラズム軍と対峙して、絶対渡ることのできないとされていた砂漠を渡って首都サマルカンドの背後の都市ブハラに侵攻したエピソードは、義経が一ノ谷の戦いで絶対に馬では駆けおりることのできない坂を駆け下りた逆落としの話を彷彿とさせる。また、インダス河畔の戦いでホラズム國皇子が鎧を捨て馬もろともインダス川の濁流に身を投げて何としてでも逃げようとするのを見て、追撃の手を緩め息子たちに「彼を模範とするように」と言ったのは、かつて頼朝からの追撃を受けてどんな手を使ってでも逃げ延びた自分とダブらせてみていたのではないかと想像してしまう。
そうすると、日本史における元寇というのは壮大な兄弟喧嘩ということになってしまう。フビライは祖父チンギスから話を聞いて祖父とどういう由縁のある国であるかを知っていた可能性があるとしても、幕府側はどこまでモンゴルがまさか自分たちが過去に追いやった義経の軍であることを知ってたんだろうか。。
ある宇宙人のコンタクティーのブログで、正月の三が日は、それぞれその年の前期、中期、後期の運気を示していると述べられていましたが、そのような年回りだったと感じています。
もちろん、途中での自分の変化の度合いによっては修正することもあるでしょうが、自分の今年についてはわりかしそうだったように思います。
旧暦で見るやり方もありますが、シンクロシニティーの考え方からすると新年のほうが当たっているという考え方もあります。たぶん、どっちも大事なんでしょう。
今年は、易と宿曜経で変化を起こすのにかなり良い年回りだったので大幅な環境の変化を起こしたのですが、西洋占星術ではたぶん来年の中頃まで修行の時期らしくそれもまた当たっていたと思います。この流れは今も現在進行形です。なんとかやってこれたのは易と宿曜経での運気の良さによるものかもしれません。
特に宿曜経での年回りの良さは、宿曜経は28年周期で年回りが巡ってくるのですが、28年前にも他動的ではありますが大きな環境の変化があってそのことがその後の自分の人生に良い前向きな変化をもたらしています。こうして、過去の自分の運気と照らし合わせてあたっているのを確認したからこその、環境を変化することへの決断でもあったのです。
また、最近に確認した占い上の発見としては、宿曜経で自分の宿によって自分を助けてくれる宿というのがあって、今月からついている直属の上司がすごくよく親身になって教えてくれる人で自分の大きな助けになっているのですが、やはりその宿の人でした。
この宿の見方はよくある三九の秘法による相性診断とは別の見方で、羽田守快氏の著書に載っているやり方で見たものです。この自分にとっての助けになる宿は知っておいたほうが良いのではないかと思っています。
まあ、そんなこんなの一年でした。
来年もまた、自分の運気をチェックしつつやっていこうと思います。
当面は環境への順応期間だと思っています。きついですが。
ブログを書く暇はおろかツイッターを見る時間もない様相です。
それではみなさん、よいお年を。
久々につぶやき的に記事を書きます。
現在環境が激変しブログを書く暇もないですが、
そうなる前に最後に訪れた二見興玉神社で購入した塩からは
、僕は霊眼なるものは全然持ち合わせてないんですけど、
明らかに物理的視覚とは違う脳内視覚でたおやかに尾をひくエネルギーを
発しているのがみえました。
これ、ホントにびっくりしました。
この神社は伊勢神宮を訪れる前に清めをする所らしく、そこで
清めにかけられた塩というのは本当にパワーを持っているのだな、と。
そのエネルギーが身体に、、といっても物理的身体にとってでなく
おそらくアストラルボディとか霊体とかよくいう身体に心地よく感じるのです。
神様や宇宙人と言った高級な存在の言葉を取り次ぐ人から(ホントかどうか
証明できんが、、笑)、神社仏閣を訪れた時にそこのエネルギーを感じるように、
というアドバイスを前からちょくちょくいただいていて、
例えばある大きな神社では本殿に全くエネルギーを感じなくて、別の摂社にエネルギー
を感じると話したところ、それは正しい認識らしくて、
ああ、自分は霊的感覚って全然ないけど、神社仏閣のエネルギーを感じようとする
ところから開かれていくのもしれないな、と思い始めていた矢先に、
この二見興玉神社(ふたみおきたまじんじゃ)で明らかなエネルギーを触覚的にも視覚的にも認識できたのでびっくりしたというわけです。
まあ、今日はそんな小話でした。
最近ブログ更新してないので駆け足的に一筆。