参拝後はもう少し早朝の神社の空気を味わいたかったので、境内裏にある浄安杉という巨木まで行って帰ってきました。
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次なるは下山して白山長滝神社へ。
途中の見晴らし↓

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道の駅でブランチを食してから到着。
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白山長滝神社は、白山中居神社に比べて地味な感じがするのですが、近くにあるので白山中居神社を詣でた際は寄ってます。(って、まだここらに来るの二回目ですけどね)

その後は、あまり遅くに帰宅すると翌日につかえるので迷いましたが、郡上八幡城には寄っていくことにしました。これなら午後九時くらいには帰着できる。午後九時でも十分遅いと思われるかもしれませんが、以前は深夜零時を過ぎてから帰着したりしてましたから。

で、山の上に立つ郡上八幡城へは車で登っていけます。
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日曜なので家族連れ、カップルなど人もなかなか多いです。城内の階段を上がっていき、見渡すことのできる市街地。↓
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城内は歴史上の展示場にもなっていて、初めて知ったのですが、東京の青山(行ったことないけど)という地名は郡上八幡城主の青山氏からきているんですね。

また、司馬遼太郎の小説で有名な山内一豊の妻・見性院の出身地でもあるようです。
ちょっと、「功名が辻」読みたくなってきました。実際行った場所に関わりのある読み物は読みたくなってきます。
司馬遼太郎の小説は長い小説が多く、精神的体力と時間が必要なのでいつまた読める時が来るかわかりませんが。

他にも、郡上一揆や戊辰戦争での郡上藩の立ち回りについての展示がありました。

その後、土産に栃餅を購入して帰途へ。
久しぶりに記事を書いてみようか。
実は、屏風祭とか龍神巡りもまだ続きがあるけどメンドくさくなって書いてないという・・

さて、先週末、岐阜県郡上市の方へ行ってきました。
そういや今年はまだ白山神社の系列へ行ってないなと思って、これから寒くなると道路も凍結してこの方面は行けなくなるので。

土曜の夜、一人で車を運転して高速をひたすら行くのはちょっと寂しい。(ノ_-。)
ビジネスホテルに泊まりました。
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翌朝、
朝は食事をとらないでいくと神気をよく吸収できるとかいう人もいるので、何もとらずに出発。

到着。
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急な階段を下って
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橋を渡りますが、その橋からの風景。
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朝八時くらいだったかな、やはり早朝は気持ちいいです。加えて、朝から何も食べておらず、血流が消化器にとられないですむので、その分神経が外界に向いているのかもしれません。

本殿など詣りますが、格式の高い神社では社殿なとあまり写真撮らない方がいいともいいますし写真はありません。

本殿にて伊邪那岐神・伊邪那美大神に参拝。ちょっと生活の中での疑問点があったので尋ねました。僕は0能なので答えなど聞こえるはずもありません。今後の日常生活の中で示唆など得られたらいいなと思います。
それにしても岐阜県指定重要文化財にもなっている本殿の彫刻は細緻ですね。
本殿の東西、東相殿には大日霊貴大神オオヒルメノカミ(天照大神)、西相殿には瓊瓊杵尊ニニギノミコト・磐長姫神イワナガヒメカミ。

本殿下りると、大宮殿ともう一つの摂社・須賀社が今回は開いていたので中に入ってお参り。
大宮殿には菊理媛神が鎮座まします。

ちょうど居合わせた社務所の人に聞くと、前の人がお札をもらいにくると問い合わせがあったので今日は開いていたのだそうです。ラッキー。
大宮殿の中で菊理媛神の神前でお札をもらい受けるそうです。僕もせっかくの機会なので分けていただきました。
次いで、須賀社には素佐鳴神・鵜葺屋葺不合尊ウガヤフキアエズノミコト・大己貴神が祀られ、神輿もおいてありました。
その後、開山堂へいき、安置されたばかりの鑑真和上お身代わり模像をみてから唐招提寺を退出。

駐車場のところで、奈良時代につくられていた「蘇」という古代のチーズを買いました。
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帰ってから食してみたもののそれほど美味しくはなかったかな。まあ、古代の技術そのままにつくったものを現代のチーズと比較するのも無理があるか。
一説では、当初遊牧民族を率いて渡来した聖徳太子が蘇を伝えたともいう。聖徳太子はミトラ(三寅)の日に毘沙門天を勧請するなど、ペルシア系の匂いがぷんぷんするからあながち嘘ではないのかもしれない。

ついでにすぐ近くにある垂仁天皇陵へ。
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鳥居が設けてあったので参拝をしてから帰途へとつきました。


後日、鑑真和上渡来について書かれた小説、「天平の甍」(井上靖)を読みました。
後書きによると、
鑑真のいた揚州市には奈良の唐招提寺を模した「鑑真記念館」なるものもあるみたいで、まだ一度も訪れたことのない中国本土を訪れる機会に恵まれれば訪ねてみたいですね。
渡日途中で休息した寧波市の阿育王寺(あしょかおうじ)などというお寺も興味あります。Wikipediaによると『中国国内で唯一インドの「アショーカ王」の名前が残っている古寺』だということです。
八幡山から新町通を南下して北観音山に至るまでにもいくつか屏風絵に出くわしました。

下にあるように「光琳百花図屏風」。
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源平合戦「鵯越(ひよどりごえ)の坂落とし」
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こんな断崖をよく駆け下りたものだと・・
さる能力者から聞いた話ではジンギスカンはやはり義経だそうで、これだけの馬術を持っていれば大陸の騎馬民族の中でも伍してやっていけたことでしょう。加えて、鞍馬天狗に習ったという兵法を持ってすれば、それまで騎馬戦闘能力に頼っていた民族を、兵法をも交えた集団に変質させたのだから、周辺諸国もそりゃやられるわけです。

続けて源平合戦「屋島の戦い」
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那須与一も見えます。

また余談ですが・・平氏が滅ぼされた理由は「「平氏にあらずんば人にあらず」」と藤原氏をないがしろにしたというのもあるようです。(というかそれが本当の原因?)
それを知っていたため、北条家は鎌倉幕府三代将軍実朝死後、藤原家や皇族から将軍を迎えたのだと。皇族も藤原家の血筋だと思われますので。公家と言えば藤原氏、藤原氏以外では橘氏だけが細々と命脈を保っていたにすぎなかったと、かの司馬遼太郎氏も書いておられました。
現在も日本の世は藤原氏が握っていると。薩長閥よりも。




と観つつ行くうちに北観音山へ。
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初めて出くわした屏風↑のある民家のすぐ南には八幡山。
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↓八幡山の装飾品展示場所。
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そして八幡山のすぐ西にある「紫織庵」に入りました。有料ですがせっかくなので、と思ってましたがここはこの時期だけでなく通年公開しているみたいですね。
下の写真の真ん中少し左寄りに『紫織庵』の看板があります。その下から入っていきます。
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内部写真は屏風絵など撮影禁止でほとんど撮ってないので写真はなし。
玄関入ってすぐの洋間やその奥の茶室は年季の入った趣を感じさせるものでした。

一階客間は最も格式の高い部屋で数点の屏風絵が展示されています。
そこにいるボランティアの中年女性の話ももう忘れてしまったけど、「屏風絵にしてもなんにしても残っている最古のものは応仁の乱以降のもの」と言ってたのだけは覚えているなあ。
関東へ行ったときの記事でも書きましたけど、室町以前の日本は全然違う様相だったらしいので、ホント憎っくき応仁の乱!、て感じですね。室町以前の日本の手がかりを焼き尽くしてしまった・・・

奥の部屋では長襦袢などの展示とともに販売もしていました。高価です。こういう服装ももはや室町以前のものとはかけ離れているのだろうか・・