特に日本では、ご承知の通り、「風」による大衆の変化が激しく、国民は「小泉改革」、そして「政権交代」という「風」と「空気」になびき、そしてまた今「維新」という「風」になびこうとしている。
一体、民主主義とは「善」なのか?という問いももっともだろう。
古代ギリシャのアテナイで誕生した「民主主義」という政治システムは、誕生から様々な問題点が指摘され続けてきた。かつてチャーチルが「民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば。」と言ったのは有名な話であるが、「民主主義はベストではないがベター」という意見が一般的である。
しかし埼玉大学の長谷川三千子教授の『民主主義とは何なのか』という本は、徹底的に「民主主義」を批判していた。
長谷川教授は言う「民主主義という言葉は、第一次大戦までは「いかがわしい言葉」だった。それはフランス革命時の恐怖政治を意味した。ところが、第一次大戦で勝った英仏側が、戦争の大義として「民主主義のための戦い」を使った。しかし、当時は大衆が好戦的であったことを考えると、民主主義が戦争を起こしたとも言え、これは欺瞞である。民主主義が生んだヒトラーが「民主主義の敵」とされたのも欺瞞である。」
また長谷川氏は次のようにも言う「民主主義には「不和と敵対のイデオロギー」(ひとつの共同体の内側に、常に上下の対立を見出し、上に立つものを倒さねばならないとするイデオロギー)がある。これは既に古代ギリシャの民主政においてはっきりと姿をあらわしていた。民主政と僭主政は本来近いものである(民衆の力を原動力として行われる政治)。そのため古代ギリシャ人は、自分たちの指導者が僭主とならないように常に指導者を血祭りにあげなければならず、それがまた僭主が育つ準備となるという悪循環を繰り返した。」
そう述べて長谷川教授は次のように結論付ける。「国民主権の原理を登場させたアベ・シェイエスは、国民の意思を至上至高の法としてしまった。そしてそこではルソーが想定したような、熟慮、配慮、遠慮といった「理性」を国民に要求しなかった。しかも、国民の意思が絶対であるため、そこには以前のような神法や自然法への服従という抑止も働かない。国民主権は「抑制なき力の原理」「国民に理性を使わせないシステム」である。」
まさに「民主主義」は「国民に理性を使わせないシステム」なのかも知れない。
私は長谷川先生の本を読んで、「民主主義の恐ろしさ」を思い、私たちがそれを十分認識しなければならないと感じた。そして、何としてでも民主主義の欠点を克服するために制度の修正を不断の努力によって行わなければならないと感じた。
次の選挙もまた今のままの選挙制度で進んでしまうと思うが、「小泉改革」「政権交代」「維新の会」の経験を機に、日本的民主主義システムのあり方を根本から修正することを真剣に考える時がきているのではないだろうか?
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今日は竜王の町長・議長経験者に集まっていただき選挙対策会議を行いました。
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次の選挙に向けてかなり濃い話し合いができました!!非常に良かったです!
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竜王町の会議と少し時間をずらして、近江八幡後援会の馬渕支部の世話役会議・選対会議を行いました。
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八幡後援会馬渕支部の支部長は村地左紀雄さんが引き受けてくださることになりました。また各字幹事も全て決めて頂きました。関係者の皆さん有難うございました。