「集団的自衛権」は自然権 | 武藤貴也オフィシャルブログ「私には、守りたい日本がある。」Powered by Ameba

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国家主権、国家の尊厳と誇りを取り戻す挑戦!品格と優しさ、初志貫徹の気概を持って(滋賀四区衆議院議員武藤貴也のブログ)

 「集団的自衛権」が議論になっている。総理の私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)は、集団的自衛権が行使できるとする憲法解釈の変更を求める報告書をまとめ、自民党としても「限定的容認」を目指して議論を進めている。私から見れば遅過ぎると感じる上、現状でも付されている「限定的」という文言に強い違和感を覚えている。

 そもそも集団的自衛権は国際法上広く認められた国家固有の「権利」であり、国連憲章の第51条では「自然権」(英語ではinherent right,フランス語ではdroit naturel,中国語では自然権利)として明記されている。「自然権」とはいかなる法によっても制限できない生来の権利のことを言う。従って、それをこれまで憲法が禁じていると解釈してきたこと自体が異常だったのであって、今回の議論は解釈の「是正」に向けた第一歩である。しかし「限定的」としているのは、またおかしい。

 今はもう下火だが、数年前「国連改革」が叫ばれた時期があった。国連常任理事国入りを目指し、日本も同様の目的をもつ国々と連携して国際的に働きかけを行った。結論から言えばこの試みは失敗に終わったのだが、注目すべきは失敗の中身である。というのも日本以外の国は近隣地域に「共同提案国」という存在があったが、日本の場合、日本がこれまで膨大な援助を送り続け、それによって成長を遂げたASEAN諸国の内、一か国も日本の国連常任理事国入りを支持しなかったからである。なぜASEAN諸国が日本を支持しなかったのか、その理由は中国への配慮があったからだ。

 最近中国は尖閣諸島だけではなく、ヴェトナムやフィリピン近海でも当該国と武力衝突に至っているが、中国の軍事的南下は従来からあった。実はその都度日本は、中国に対する抑止力としての働きをASEAN諸国から期待されていた。元タイ大使の岡崎久彦氏は、かつて中国の南下を抑止するため日本と同盟関係を結びたいとタイ政府から幾度となく働きかけがあったと証言している。しかしもちろん日本はタイと同盟関係は結ばなかった。理由はひとつ、集団的自衛権の行使ができないからだ。日本は守ってもらえても、日本が他国を助けることはできない。こうした状況では事実上同盟関係は結べない。日本はASEAN諸国にとって安全保障上全く頼りにならず、従ってASEAN諸国は次第に中国に配慮せざるを得ない状況に追い込まれていった。こうした状況が国連改革時の日本の孤立を招いたことは言うまでもない。

 集団的自衛権を行使できない弊害は、PKO活動の際も起きた。湾岸戦争以来、国際的な義務と責任を果たすため、日本は幾度となく自衛隊の海外派遣を行った。しかし現地では他国の軍隊に護衛してもらい、その上、護衛している軍隊がテロや紛争国当事国の軍隊から攻撃を受けた場合、日本の軍隊は護衛してもらっている軍隊を援護することができなかった。これも集団的自衛権が行使できないからであった。今後も予想されるPKO活動だが、これ以上義務と責任逃れをすることは、当然日本の信頼を失墜させることになる。

 にもかかわらず、集団的自衛権容認に相変わらず未だ「限定的」というごまかしのような修飾語をつけることに違和感を覚えるのは私だけではないだろう。「地球の裏側に行って戦争に参加するのか」という疑問に勇気をもって「そういうこともあり得る」と答弁することが今の政治に求められている。そもそも「地球の表側は良くて裏側はダメ」という意味不明の議論は、論理的ではなく感情的なものだ。中東や南米でPKO活動が行われるかもしれないし、今後地球の裏側にあるヨーロッパや南米の国と同盟関係を結ぶこともあるかもしれない。そうしたことも想定して「集団的自衛権」という「権利」を行使できるように法的な環境を整備することは、遅すぎるが当たり前のことである。