さて本日は、せんせいさんかい法要ほうように当たりけんしょうかい発足より66年、だいしょうにんさま一筋ひとすじ忠誠ちゅうせいつらぬき通されたせんせいの仏法じょうの重大なるお立場とそのお徳をあらためて拝し、もって、そのほうおんとさせていただきたく存じます。
 けんしょうかいの前身であるみょうしんこうが発足したのは昭和32年8月。
 当時せんせいは「広宣こうせん流布るふの情熱もない寺院経営至上主義の住職じゅうしょくの下では広宣こうせん流布るふほうこうは叶わない」と意を決せられ、みょうしんこうを発足されました。
 この時、初代しょだい講頭こうとうせんせい53歳、あさせんせい25歳でした。しかし、まつ住職じゅうしょくはそれに反対した。
 しゅうせいしゅうの上からどうきょうがいなければ講中として認証されないところ、英邁えいまいの聞こえ高き総本山第六十五世日淳にちじゅん上人しょうにんが反対するまつ住職じゅうしょくの頭越しに御認証くださったのであります。
 その頃のしゅうもんは、御当職日淳にちじゅん上人しょうにんと共に隠尊いんそんには第五十九世日亨にちこう上人しょうにんと第六十四世日昇にっしょう上人しょうにんがおられ、いずれの上人しょうにん異口いく同音どうおん国立こくりつ戒壇かいだんを叫んでおられた。
 このさん上人しょうにんまします当時のしゅうもんは力に驕る学会も一目も二目も置き、盤石の感があった。
 ところが、時の不肖なるかな昭和32年の秋に日昇にっしょう上人しょうにん日亨にちこう上人しょうにんが、その翌々年の昭和34年11月には日淳にちじゅん上人しょうにんが相次いでせんされた。
 日淳にちじゅん上人しょうにんの後に登座したのは、庶務部長の頃から学会に迎合し、一部僧侶から顰蹙ひんしゅくを買っていたほそにったつでした。
 一方、学会においては戸田とだ城聖じょうせい第二代会長が昭和33年4月に死去し、次いでいけだいさくが第三代会長になった。
 ここに、いけだいさくほそにったつが心を合わせればいかなることもできてしまう状況が作られたのでした。
 けんしょうかいの発足があと数年遅ければ、第六天の魔王その身にいけだいさくの妨害でそれは叶わなかったにちがいなく、まさに、ギリギリの所だったのでした。
 学会の政治進出にともな国立こくりつ戒壇かいだんの批判の声が高まり、それが選挙に不利をもたらすと見るや、いけだいさくほんぶつ一期の遺命ゆいめいたる国立こくりつ戒壇かいだんしゅうもんに捨てさせ、にせ戒壇かいだん正本堂しょうほんどうのたばかりをしたのであります。
 悲しいかな、仏法相違の衆義を断固として砕くべきほそにったつにっけんの二代の貫首は唯々いい諾々だくだくとこれに協力したのでした。
 この遺命ゆいめい破壊を御覧になったあさせんせいもっすればだいしょうにんさまへの最大のちゅうになる」とただお一人捨て身のけつで連連たるかんぎょうにお立ちになったのであります。
 せんせいは、遺命ゆいめい守護の戦いについてこのように述懐じゅっかいしておられます。

 「いけだいさくは、誰人も背けぬ法主の権威を前面に押し立てて遺命ゆいめいを抹殺せんとした。
 ほそにったつは『御相伝にはこうある』とまでたばかって、正本堂しょうほんどう戒壇かいだん遺命ゆいめい戒壇かいだんと偽った。
 またにっけんは『さんだいほうしょう』の聖文をズタズタに切り刻み、じ曲げに曲げた解釈をもって国立こくりつ戒壇かいだんを否定せんとした。
 このような大誑惑おうわくすべて打ち砕くことができたのも、ひとえに、日寛にっかん上人しょうにんなんがあればこそである。
 『もし日寛にっかん上人しょうにんなんなくば、どうして遺命ゆいめい守護のほうこうができたであろうか』と私はつくづくおもっている」と。