ここで、せんせい日寛にっかん上人しょうにんなんをお若き頃からいかにして学んでこられたのかについて少しく触れさせていただきます。
 まず、日寛にっかん上人しょうにんとはだいしょうにんざい広宣こうせん流布るふのこの中間にお生まれになって、さんだいほうしょうを余すところなく顕わされ、将来の広宣こうせん流布るふの戦いの準備をしてくださったちょうぼんぜつりんだいせいじゃであります。
 日寛にっかん上人しょうにん著述ちょじゅつの主なものは『しょ文段もんだん』と『六巻抄ろっかんじょう』であります。
 生来のみょうと富士大石寺に伝わる御相伝をもって重要しょごくを詳細に解説してくださったのが『しょ文段もんだん』。
 さらに、だいしょうにんの御本懐たるさんだいほうじんを六巻にまとめて解説してくださったのが『六巻抄ろっかんじょう』であります。
 日寛にっかん上人しょうにんは「臨終りんじゅうの時蕎麦そばを食すべし」と御自身の臨終りんじゅう正念の姿を証拠として「我が諸説がだいしょうにんさまの御心に叶うことを信ぜよ」とおおせられたお方であります。
 ゆえにせんせい

「私はこのいちをもって日寛にっかん上人しょうにんを絶対と信ずる。
 日寛にっかん上人しょうにんなんを通して、だいしょうにんさましょじんじんごくを拝し、いよいよ広宣こうせん流布るふの時にほうこう申し上げねばならぬ。これが、私のおもいである」

おおせであります。
 日寛にっかん上人しょうにん著述ちょじゅつは江戸時代の当時のために顕わされたものではない。まさしく、将来の広宣こうせん流布るふの時のために留められたものであります。
 だから『かんじんのほんぞんしょうもんだん』にはこれこうだいくんおくる」おおせられ『六巻抄ろっかんじょう』にはもっこうせいおくる。れはれ、ひとえこうせんためなり」おおせになっておられる。
 まさしくこう前夜に第六天の魔王が正系門家のことごとくをたぶらかした時に、ただお一人遺命ゆいめい守護に立たれるあさせんせいに贈られたもの」と私は強く確信かくしんしております。
 せんせい日寛にっかん上人しょうにんの御筆記に初めてお遭いしたのは終戦後の10代の頃で、初代しょだい講頭こうとうせんせいが掘った防空壕ぼうくうごうの中にしまわれていた物を初めて手にされたという。
 それからせんせいは、日寛にっかん上人しょうにんなんもとづいてしょを拝することを重ねていくうちにしょうちゅうこのみごとりょうりょうふんみょうならん」とのごとくだいしょうにんさましょごくしょ四百余編の御意がわかってきたとおっしゃっておられました。
 何のちゅうしゃくぼんも持たずに『ろっかんじょう』等を学ばれ、しょごくをおつかみになることなど凡夫には到底るものではありません。
 せんせいは、日寛にっかん上人しょうにんのただ人ならざる宿縁について

「単に今生の勉学のお智恵ではない。日興にっこう上人しょうにん日目にちもく上人しょうにんと同じくおん元初がんじょ以来だいしょうにんさまつかたてまつったお方であられる」

おおせになっておられます。
 僭越せんえつしょうの上でわせていただけば、私はせんせいのお姿を間近で拝見してせんせいの宿縁もおん元初がんじょ以来だいしょうにんさまつかたてまつったお方である』おもっております。
 さもなくして、絶対ぜったいけんの時の貫首を始め戦時中の軍部のごとくおごった学会首脳やしゅうもん役僧らを屈服くっぷくせしむる圧倒的な教学力と、誰人もけん大忠誠心だいちゅうせいしんをどうして持ちましょうか。


令和7年 10月16日 浅井昭衞先生三回忌法要 浅井会長御挨拶