そして、不思議ふしぎおもせきがあります。それは、中島なかじま円妙院えんみょういん日彰にっしょう上人しょうにんとのえにしです。
 せんせいが22,3歳の頃、中島なかじま円妙院えんみょういん日彰にっしょう上人しょうにんが妙光寺で行われた『六巻抄ろっかんじょう』のこうに参加されたのでした。
 この中島なかじま円妙院えんみょういん日彰にっしょう上人しょうにんは終戦直前のしゅうもんの異常事態の折管長代務者、すなわち貫首のお代理をお勤めになったお方であり、いかにも明治の人らしく気骨があり、人にへつらわず、自己顕示などはせず、何より教学に造詣ぞうけいが深く、しゅうもんの化儀に関して権威とわれていただいがくしょうです。
 その『六巻抄ろっかんじょう』のこうがあまりに難解だったため、当初は2,30人集まっていた受講者が途中ですべて脱落し、最後には、中島なかじま円妙院えんみょういん日彰にっしょう上人しょうにんせんせいの一対一のこうとなったのでした。
 せんせいが「一人で本当に申し訳ありません」とおっしゃったところ、中島なかじま円妙院えんみょういん日彰にっしょう上人しょうにんは「いや、一人でも真剣に聞いてとくしてくれれば自分は満足である」とこうを続けてくださったという。
 その時のご縁で『六巻抄ろっかんじょう』のすべてのこうを終えた後もせんせいは月に二度ほど妙光寺を訪ね、中島なかじま円妙院えんみょういん日彰にっしょう上人しょうにんからほうもんなどについて教示をいただいたそうです。
 その際、明治以降のしゅうもんの歴史、ことに、歴代上人しょうにんの御振る舞いについて、三人四人座を並べては話せないようなことまでも克明こくめいにお聞きになった。
 そのことについてせんせいはこうおおせになっておられます。

 「『このようなことまでお聞きしてよいのか』とおもことまでうかがった。
 それが今『しゅうもんはいかにあるべきか』ということおもう上で、私の大きな判断基準になっている」と。

 またある時、法道院の信徒で第五十八世日柱にっちゅう上人しょうにん隠居いんきょしておられた青山教会にかつて通っていたはしへいきちという老人から「日柱にっちゅう上人しょうにんが第五十九世日亨にちこう上人しょうにんそうじょうされた時のことについて、自分は日柱にっちゅう上人しょうにんの意を帯してだいことを書き留めてある。あなたは若いけれども大変熱心だから」とある文書をったという。
 これを御覧になったせんせいは「どうにもに落ちない、いぶかしい」と中島なかじま円妙院えんみょういん日彰にっしょう上人しょうにんにそのことを尋ねたところ、重大なほうもんに関することつぶさにお聞きになったことを私はせんせいから何度かうかがいました。
 このように『六巻抄ろっかんじょう』を始めとするほうもんの他、近代しゅうもんの歴代上人しょうにんの事やそうじょうをめぐるじゅうだいをお聞きになった経緯をかんがえるほどに、せんせい中島なかじま円妙院えんみょういん日彰にっしょう上人しょうにんとのえにしは単なる偶然では決してないとおもう。
 こう前夜に第六天の魔王が打ち下らんとする正系門家において、せんせいが重大なほうこうにお立ちになるに当たってのだいしょうにんさま甚深じんじんの思し召しに他ならないと私はおもっております。


令和7年 10月16日 浅井昭衞先生三回忌法要 浅井会長御挨拶