話を戻します。
池田大作による御遺命違背が顕わになるや、先生は昭和45年3月『正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う』の一書をもってただお一人決然と宗門諌暁にお立ちになりました。
以降、先生の連連たる強烈なる諌暁は、あの力に驕る学会を二度も文書で訂正、また、時の貫首の最高指南である訓諭をも細井日達に訂正せしめたのであります。
徹底せる先生の諌暁によって悪事露見を恐れた池田大作は顕正会の息の根を止めんと細井日達をして死罪に等しい解散処分に付せしめた。
しかし先生は、たとえ本山登山を妨害されるとも、戒壇の大御本尊様に対し奉る恋慕の思いいよいよ固く、ますます澄み切った御信心に立たれ、宗門七百年の歴史でこれまで誰も行った事がない遥拝勤行による大規模な折伏弘通を展開されたのであります。
この時先生は、大聖人様が身延山中から佐渡に住む千日尼御前に対して仰せ下さった
「御身は佐渡の国にをはせども心は此の国に来れり。
乃至、御面を見ては何かせん、心こそ大切に候へ」
との御金言をいかなるお心で身に宛てて拝し奉られたのか。
また、解散処分直後に先生が叫ばれた
「御本尊をお下げしないのは宗務院が悪い。
だが、それを理由に折伏をなまければ妙信講の怠慢となる。
解散処分を受けても折伏を進める講中がたった一つだけあったという事を宗門の歴史に残そうではないか」
との師子吼を拝しては、その凄まじいまでの大忠誠心に涙が込み上げてまいります。
謹んで思うに、御遺命守護のゆえに被った死罪に等しき解散処分が仏法上、そして順縁広布の進展の上でいかに只事ならざる重大意義を持つものであったのか。今千鈞の重みを感じるばかりであります。
先生は「まさにこの理不尽な解散処分こそ御仏意であった」として
「大聖人様は『それならば、御遺命違背の貫首の本尊を拝む必要はない。戒壇の大御本尊を直接拝みまいらせよ』と遥拝勤行を教えて下さった」
と仰せであります。
まことに、御本仏の眼をくじるに等しい御遺命破壊に加担した細井日達・阿部日顕の悪貫首が書写した本尊をどうして拝めましょうか。
また、大事の御遺命に背いて何の痛痒も感じず、畏れ多くも、戒壇の大御本尊を営利の具とし、ただ己の身入りしか頭にない無道心の禿人の下でどうして広宣流布ができましょうか。
まさに、無二の師匠浅井先生の下で大聖人様が一閻浮提総与、すなわち、日本及び全人類に総じて授与あそばされた本門戒壇の大御本尊を「我も総与の中の一人」として直接拝みまいらせる遥拝勤行こそ広布最終段階の信行そのもの、広宣流布の大道、正しい道であります。
そして、大聖人様を恋慕渇仰し奉る遥拝勤行が国中に満ちて、日本一同に国立戒壇を熱願する時、いよいよ本門戒壇の大御本尊は国立戒壇にお出ましになるのであります。
畏れ多くも謹んで思うに、あの熱原の方々は国家権力の脅しにも屈せず、ついに頸を刎ねられるも<「一心欲見仏、不自惜身命」の信心を貫き通され、戒壇の大御本尊の願主たるを許された。
翻って、御遺命守護のゆえに死罪に等しき解散処分を被るとも、身命を賭して大事の御遺命を守り抜かれた先生の御信心こそ国立戒壇建立への唯願説之に他ならず、ゆえに「偏に只事に非ず」と御感あそばされた大聖人様が広布最終段階の信行たる遥拝勤行を先生に授け給うたものと伏して拝するものであります。
ゆえに、遥拝勤行こそ先生の忠誠の証なのであります。
私達は何の行功もない。
しかし、大忠誠の先生に師事し、戒壇の大御本尊と直接つながる遥拝勤行を実践させて頂く事で先生の御信心に全て守られ、大功徳を頂けるのであります。
この遥拝勤行が大聖人様の御心に叶い奉るを示す何よりの証拠こそ、解散処分以降激励に加速した折伏弘通であります。
今や解散処分当時の250倍の三百万にならんとしております。
これこそ、先生の大忠誠の賜物であり、先生の弟子として実践する遥拝勤行に大功徳がある証拠。
そして、やがて遥拝勤行が一国に満ち満ちて広宣流布が必ず成る確証であります。
まさしく、死罪に等しい解散処分により、かえって先生は広布最終段階の信行たる遥拝勤行を確立されたのであります。
令和7年 10月16日 浅井昭衞先生三回忌法要 浅井会長御挨拶
- 説明
- 浅井先生の大信力に守られた大折伏
- 恋慕渇仰の信心口唱こそ根本である
- 顕正会の発足から御遺命守護の戦い
- 日寛上人の大宿縁
- 中島円妙院日彰上人との深き関係
- 遥拝勤行こそ忠誠の証
- 本門寺改称の陰謀粉砕
- 不思議の還御と正本堂崩壊
- 二度の一国諌暁の大精神
- 広布最終段階の御奉公に臨まん