(浅井昭衞先生三回忌法要特集号に掲載された阿部日顕の悪書『国立戒壇論の誤りについて』に記入された浅井先生の「此れ所破の為に持す也」の御筆記)

 

 話は少しれます。
 せんせい逝去せいきょされてしばらくしたある日、私は、せんせいの執務室の書庫に蔵してあったにっけんがものした『国立こくりつ戒壇かいだんろんの誤りについて』の冊子が目に留まり、それを手に取りページをめくりました。
 すると、至るページの余白には赤と黒の鉛筆でにっけんのたばかりにたいする破折が所狭しと書き込まれていました。
 平成2年のかんぎょうしょ御執筆の際に記されたものとうかがわれます。
 そして、巻末の白紙のページには雄渾ゆうこんひっしょためこれを持すなり あさしょうと大きくしたためられておりました。
 またこの悪書の末尾にはにっけんが記した「一刻も早く、国立こくりつ戒壇かいだんへの謬見びゅうけんを捨てて、かがやかしい正本堂しょうほんどう建立こんりゅうに向かって邁進まいしんすることかんようである」などと正本堂しょうほんどうを称えるけつが記してあり、せんせいは後年に至り正本堂しょうほんどう崩壊ほうかいだいげんしょうを御覧になった上で、そのけつの脇にかくしるしておられました。

 「この正本堂しょうほんどう後に崩壊ほうかいす。このげんしょうをもって一切を判ずべし」と。

 私はこの一分を拝しては『りっしょうあんこくろんおくがき』のしょしるしふみなり」との金言きんげんが脳裏をよぎり、正本堂しょうほんどう崩壊ほうかいという凡慮を絶するだいげんしょうを伴ったこのかんぎょうしょの重みがずっしりと身に迫り、だいばくに打たれる衝撃を覚えたものであります。
 このせんせいの御筆記を拝見しては、ほんぶつ一期の遺命ゆいめいを破壊せんとした天魔その身ににっけんあくらつこうみょうなたばかりを一念に億劫おっこうの心労を尽くして徹底粉砕されたせんせいの凄まじきはく、護法の御一念が痛いほど伝わり、大地にめり込むおもいとなりました。
 話をもどします。
 かくしてせんせいは、心血注いでしたためられた『正本堂しょうほんどう誑惑おうわくを破し、ざん清算せいさんを求む』と題されたかんぎょうしょを平成2年4月にっけんに送付され、同年7月に開催された二万人の横浜アリーナ大総会においてかくされました。

 「だいしょうにんさまはこの大謗法を絶対ぜったいにお許しにならない。
 そして、けんしょうかいだいしょうにんめいれいしんじんの耳で聞きたてまつる。
 もしいけだいさくほんもん改称を強行する日時がぜんに分かれば直ちに行動を起こす。
 あるいは、極秘にことが運ばれればに撤回せしむる。
 ぜんであれであれ、ことの分かり次第けんしょうかいは立つ。
 その時けんしょうかいはいかにすべきか。『りっしょうあんこくろん』にいわく。
 『しょうぼうきんとほっすることらんときまさくのごとじゅおうすべし』と。
 私はおもう、その時ぜんけんしょうかいいんはこぞって大石寺に総登山すべきである。
 二十万けんしょうかいいん戒壇かいだんだいほんぞん御前おんまえさんじ、大石寺の境内けいだいを埋め尽くし、しんじんの力をもってほんもん改称を断固粉砕しようではないか。私はその先頭に立つ。
 けんしょうかいは、あの不当なる解散かいさん処分しょぶんを受けた時も抗議行動などはしたことはない。我が身のために動いたことは一度もない。
 しかし、遺命ゆいめいの滅不滅のためならば断固として抗議行動を起こす。
 けんしょうかいの命がここで尽きてもいささかの悔いもない。必ずやだいしょうにんさまのお褒めをいただける」と。

 このせんせいの捨て身のにっけん怖畏ふいを感じ、いけだいさくを裏切り、ほんもん改称を断念した。
 怒り心頭に発したいけだいさくは、それまで暖めていたにっけんのスキャンダルをえげつないまでに暴き立て、いたたまれなくなったにっけんは名誉毀損で提訴するも逆に自身が証人尋問に引きずり出され、学会弁護団になぶり者にされて耐え難き屈辱くつじょくを味わった。
 かくして、平成10年、にっけんいけだいさくが誇りとしてきた正本堂しょうほんどうを取り壊してしまったのでした。
 これ、せんせいの必死護法のかんぎょうにより諸天しょてんが動き、にっけんしんの力を利用してこれを為さしめたのであります。
 まさしくだいしょうにんさまはこの大悪を断じて許し給わず、ゆえに、あさせんせいをしてかんぎょうせしめ、諸天しょてんをして学会・しゅうもんかい叛逆ほんぎゃくせしめ、ついににせ戒壇かいだん正本堂しょうほんどうを打ち砕き給うたのであります。


令和7年 10月16日 浅井昭衞先生三回忌法要 浅井会長御挨拶