本年のたいしきを迎えるに当たって、私は、せんせいがどれほど富士大石寺の源流を仰ぎ、身を捨てて戦ってこられたのかを改めておもいを巡らせました。
 かつてせんせいは、日興にっこう上人しょうにん日目にちもく上人しょうにんがいかに10月13日をだいにしておられたかについてかくどうくださいました。

 「日興にっこう上人しょうにん日目にちもく上人しょうにんは10月13日を夢寐むびにも忘れ給うことがなかった。
 だいしょうにんさま葬送そうそうの時、日興にっこう上人しょうにん日目にちもく上人しょうにんおんひつぎ輿こしに乗せまいらせ、肩にになたてまつった。
 この時のこころを恐れながら拝したてまつれば『ほんぶつだい遺命ゆいめい、この身命を捨てても必ずや実現したてまつる』このおもい以外には断じてあられないと拝したてまつる。
 そして、そのこころ日興にっこう上人しょうにんのぶざんとなり、四十数度の国主諌暁かんぎょうとなり、列島全域へのしんほうとなり、さらに、日目にちもく上人しょうにんの身命を捨てての最後の天奏てんそうとなり、その時のもうしじょうにちもくせんぼうげんがために、じつてんそうたっせしむ』との御文となっているのである」と。

 せんせいは、毎年10月13日を迎える度に、だいしょうにん葬送そうそうの折の日興にっこう上人しょうにん日目にちもく上人しょうにんこころを仰がれ、遺命ゆいめいじょうじゅへのけつを固めておられたものと拝察はいさついたします。
 ここに、簡略に日興にっこう上人しょうにんのぶざんと列島全域に及んだしんほう並びに日目にちもく上人しょうにん国諫こっかんと最後の天奏てんそうについて拝します。
 のぶの地頭波木井はきり実長さねながしんじん逸脱いつだつし、のぶの山がほうぼう汚濁の地と化したため、日興にっこう上人しょうにんとうほうならんときわれむまじきよしとのだいしょうにんさまの御遺言のまま、前途多難を御覚悟の上でのぶざんをなされたのであります。
 正信しょうしんに住していた波木井はきり実長さねながの子息に宛てた『はら殿どのへん』には、のぶざんに当たってのじょうを尽くしたこころがしたためられている。

 「のぶのさわまかそうろうことめんもくなさ、なさ、もうつくがたそうらへども、かえあんそうらへば、いずくにてもしょうにんおんあいまいらせてそうらわんことこそせんにてそうらへ。
 さりともとおもたてまつるに、ことごとてきたいせられそうらいぬ。
 にっこういちにんほんしょうぞんじてほんがいたてまつそうろうべきじんあいたっておぼそうらへば、わするることなくそうろう
と。

 「のぶの沢を離れるに至った事、そのめんもくなさ、なさは到底言葉にはもうつくがたい。
 しかし、よくよく案ずるに、いかなる所でもだいしょうにんしょうを相継ぎ一国いっこくに立てることこそ究極のだいである。
 そのけつをもって見るに、今門下のはことごとくだいしょうにんに背く師敵対となってしまった。
 ここに、にっこういちにんだいしょうにんしょうり、ほんがいたてまつるべきにんあいたっていれば、そのたるこくりつ戒壇かいだんこんりゅう遺命ゆいめいわすれたことはない」と。

 たとえ、前途に困難が待ち受けようとも、だいしょうにんさまより本門ほんもん戒壇かいだんだいほんぞんを付嘱され、本門ほんもんづうの大導師となり給うた日興にっこう上人しょうにんの、いかなる情にも流されないいささかの妥協や馴れ合いもない、厳格極まるその無限の責任感、孤高の忠誠心ちゅうせいしんには熱涙ねつるいきんません。
 また、日興にっこう上人しょうにん日目にちもく上人しょうにんは列島全域への驚異的なづうをなされました。
 堀日亨ほりにちこう上人しょうにん日興にっこう上人しょうにんの御門下においては『広宣こうせん流布るふ朝夕近し』の大情熱が満ちていた」おおせられております。
 ゆえに、現在のような交通こうつうかん通信つうしんじゅつもなく、徒歩で移動する以外にない当時の環境で北は東北から南は四国・九州に至るまでの驚くべきづうを為されたのであります。
 ことに、日目にちもく上人しょうにんだいしょうにんさまの百箇日ほうようを終えるや、日興にっこう上人しょうにんのお許しをて多くの親類・縁者が住む東北づうけつに立たれた。
 当時、のぶから奥州までは徒歩で二十余日。山にはおおかみや山賊がおり、その難儀は想像を絶するものがある。
 その中、日目にちもく上人しょうにん幾度いくたびも奥州に下ってはづうされ、いくつもの法華堂をこんりゅうされたのであります。
 さらに、日目にちもく上人しょうにんだいしょうにん日興にっこう上人しょうにんの代奏として身命も惜しまず公家・武家へのこっ諌暁かんぎょうをなされ、そのかんは実に42度にも及んでおります。
 弘安4年にだいしょうにんさまの御命令によって京都の後宇多ごうだ天皇てんのうもうしじょうを奏進されたことを始めとして、だいしょうにんにゅうめつ後においては日興にっこう上人しょうにんの代奏として国諫こっかんをされている。
 一国いっこく逆縁ぎゃくえんであれば、一回一回の国諫こっかんはまさに命がけであります。
 しかも日目にちもく上人しょうにんいま国諫こっかんの成果がられぬこと煩悶はんもんしておられたという。
 そして、最後のこっ諌暁かんぎょうが京都のだい天皇てんのうへのもうしじょうそうしんであります。
 この時日目にちもく上人しょうにんはすでに74歳のろうれいくわえて、長年の東奔とうほん西走せいそうによってくるぶしを痛めておられ、お身体もおよわりになっておられた。
 然るに、日目にちもく上人しょうにんは長途の天奏てんそうけつされたのであります。
 正慶2年2月7日に日興にっこう上人しょうにんが御遷化されたその年の10月13日、日目にちもく上人しょうにんは御自身でお勤めになった最初で最後のたいしきほうしゅうされ、直ちにもうしじょうをしたためられた。
 そして、寒風かんぷう吹きすさぶ中に日尊にちぞん日郷にちごうの二人のを杖と頼み、老弱の足を踏みしめて、ふたたび大石寺に帰るあたわざるを御覚悟の上で最後の天奏てんそうに旅立たれたのでした。
 その時御所持のもうしじょうの末文には

にちもくせんぼうげんがために、じつてんそうたっせしむ」と。

 「せんぼうとは、日蓮にちれんだいしょうにんの唯一のだいがんたるこくりつ戒壇かいだんこんりゅう以外にはない。
 だいしょうにんさまのこのだいがんを天子の耳にれしむるべく、今この天奏てんそうを成したのである。
 まさにだいしょうにんさまこころこたたてまつらん」との御一念だけで身命をなげうたれたのであります。
 何という深く固き大忠誠だいちゅうせいでありましょうか。これらが富士大石寺の源流であります
 すべては、だいしょうにん御葬送の折のくれないの涙の中に固めた遺命ゆいめいじょうじゅへのちかいより発しているのであります。


令和7年 10月25日 10月度 総幹部会 浅井会長指導

令和7年 10月27日 10月度 男子部班長会 行成総男子部長指導

令和7年 11月15日 日目上人御報恩勤行会 浅井会長御挨拶