「この罰(ばち)を以(もっ)て徳(とく)を思(おも)うに、我(わ)が門人(もんじん)等(とう)」

 大(だい)聖(しょう)人(にん)様(さま)に御味(おみ)方(かた)申し上げる、一念(いちねん)信(しん)解(げ)でこの南無(なむ)妙(みょう)法蓮(ほうれん)華(げ)経(きょう)と唱え奉(たてまつ)る

「我(わ)が門人(もんじん)等(とう)は福(ふっ)過(か)十(じゅう)号(ごう)疑(うたが)い無(な)き者(もの)なり」

と、こう仰(おお)せになっておられるのであります。

 この事を通して「爾(に)前(ぜん)経(きょう)を習い極(きわ)めた、四味(しみ)三(さん)教(きょう)の極(ごく)位(い)よりも私達の方が勝(すぐ)れているんだ」と。

 爾(に)前(ぜん)経(きょう)というのは四十余年の経々(きょうぎょう)の中でもものすごく広いですよね。
 これをことごとく習い極(きわ)めた釈(しゃく)尊(そん)の弟子(でし)の大菩(ぼ)薩(さつ)よりも、末法(まっぽう)の、何にも分からないけれども南無(なむ)妙(みょう)法蓮(ほうれん)華(げ)経(きょう)と唱える私達のほうが位が高いかというと、爾(に)前(ぜん)経(きょう)をいくら習い極(きわ)めても仏になれないんですよ。

 私達はこのまま一(いっ)生(しょう)成(じょう)仏(ぶつ)が叶うんだ。よって私達の方が仏法(ぶっぽう)上の位(くらい)は高いでしょう。

 これ実に、私達の力(ちから)ではない。

「大(だい)聖(しょう)人(にん)様(さま)のお力によって、自分達凡(ぼん)夫(ぶ)がそのように高い位(くらい)にあるんだ。一(いっ)生(しょう)成(じょう)仏(ぶつ)を遂(と)げる位(くらい)にあるんだ」

という事であります。
 ちょうど、足の弱い幼い子供が新幹線(しんかんせん)に乗(の)ったとするんです。
 「自分で歩く力は弱いけど、新幹線(しんかんせん)に乗(の)れば、オリンピックの選手(せんしゅ)よりもっと速(はや)く走る事ができるではないか」これと同(おな)じなんですね。

 「私達に智恵(ちえ)はないけれども、尊(そん)無過(むか)上(じょう)の御(ご)本尊(ほんぞん)を信ずるがゆえに、一(いっ)生(しょう)のうちに明(みょう)覚(かく)の成(じょう)仏(ぶつ)を遂(と)げる事ができる。、この一つの位(くらい)なんだ」

という事なのであります。まことに有難(ありがた)い。
 ゆえに大(だい)聖(しょう)人(にん)様(さま)が、日本国中の諸人(しょにん)に

「我(わ)が末弟(まってい)等(とう)を軽(かろん)ずる事(こと)勿(なか)れ」

こう仰(おお)せ下された。
 これこそ今、広宣(こうせん)流布(るふ)の前夜において、顕正会において入信したての人達が、何も分からずとも「有難(ありがた)い」という思いでもって南無(なむ)妙(みょう)法蓮(ほうれん)華(げ)経(きょう)と唱え奉(たてまつ)る。
 功(く)徳(どく)を頂(いただ)いて、この感激のまま「一言(ひとこと)でも喋(しゃべ)ろう」といって広宣(こうせん)流布(るふ)に御(ご)奉公(ほうこう)する。この姿を大(だい)聖(しょう)人(にん)様(さま)が

「我(わ)が末弟(まってい)等(とう)を軽(かろん)ずる事(こと)勿(なか)れ」

といってお庇(かば)い下されているのであります。
 ですから、大(だい)聖(しょう)人(にん)様(さま)がこれほどの思いをもって私達をお庇(かば)い下さる以上は「自分は力がなくてだめだ」「私はだめなんだ」とこんな風に卑下(ひげ)したらもったいないでしょう。大(だい)聖(しょう)人(にん)様(さま)に申し訳ないでしょう。
 たとえ自分に智恵(ちえ)はなくとも「大(だい)聖(しょう)人(にん)様(さま)が偉(い)大(だい)なんだから」その大(だい)聖(しょう)人(にん)様(さま)の弟子(でし)である以上、胸を張って広宣(こうせん)流布(るふ)を進めていこうではありませんか。


平成20年 3月23日 浅井先生指導