『四(し)信(しん)五(ご)品(ほん)抄(しょう)』に宣(の)給(たま)わく
 問(と)う、汝(なんじ)が弟子(でし)、一分(いちぶん)の解(げ)無(な)くして但(ただ)一口(ひとくち)に南無(なむ)妙(みょう)法蓮(ほうれん)華(げ)経(きょう)と称(しょう)する其(そ)の位(くらい)如何(いかん)。
 答(こた)う、此(こ)の人(ひと)は但(ただ)四味(しみ)三(さん)教(きょう)の極(ごく)位(い)並(なら)びに爾(に)前(ぜん)の円人(えんにん)に超(ちょう)過(か)するのみに非(あら)ず、将(は)た又(また)真言(しんごん)等(とう)の諸(しょ)宗(しゅう)の元(がん)祖(そ)、畏(い)・厳(ごん)・恩(おん)・蔵(ぞう)・宣(せん)・摩(ま)・導(どう)等(とう)に勝出(しょうしゅつ)すること百(ひゃく)千万(せんまん)億倍(のくばい)なり。
 請(こ)う、国(こく)中(ちゅう)の諸人(しょにん)、我(わ)が末弟(まってい)等(とう)を軽(かろん)ずる事(こと)勿(なか)れ。
 天(てん)子(し)の襁褓(むつき)に纒(まとわ)れ、大(だい)竜(りゅう)の始(はじ)めて生(しょう)ずるが如(ごと)し。蔑如(べつじょ)すること(事)勿(なか)れ、蔑如(べつじょ)すること(事)勿(なか)れ。
 乃(ない)至(し)、妙(みょう)楽(らく)の云(いわ)く「若(も)し悩乱(のうらん)する者(もの)は頭(こうべ)七分(しちぶん)に破(やぶ)れ、供(く)養(よう)すること(事)有(あ)らん者(もの)は福(ふく)十(じゅう)号(ごう)に過(す)ぐ」と。
 優陀(うだ)延王(えんのう)は賓(びん)頭盧(ずる)尊者(そんじゃ)を蔑如(べつじょ)して七年(しちねん)の内(う)に身(み)を喪失(そうしつ)し、相(そう)州(しゅう)は日蓮(にちれん)を流(る)罪(ざい)して百(ひゃく)日(にち)の内(うち)に兵(ひょう)乱(らん)に遇(あ)へり。
 経(きょう)に云(いわ)く「若(も)し復(また)、是(こ)の経(きょう)典(てん)を受(じゅ)持(じ)する者(もの)を見(み)て其(そ)の過(か)悪(あく)を出(いだ)さん。若(も)しは実(じつ)にもあれ、若(も)しは不(ふ)実(じつ)にもあれ、此(こ)の人(ひと)現(げん)世(ぜ)に白(びゃく)癩(らい)の病(やまい)を得(え)ん。乃(ない)至(し)諸悪(しょあく)重病(じゅうびょう)あるべし」と。
 又(また)云(いわ)く「当(まさ)に世世(よよ)に眼(まなこ)無(な)かるべし」等云云(とらうんぬん)。
 明(みょう)心(しん)と円(えん)智(ち)とは現(げん)に白(びゃく)癩(らい)を得(え)。道(どう)阿弥(あみ)は無(む)眼(げん)の者(もの)と成(な)りぬ。国(こく)中(ちゅう)の疫(やく)病(びょう)は頭破(ずは)七分(しちぶん)なり。
 罰(ばち)を以(もっ)て徳(とく)を思(おも)うに、我(わ)が門人(もんじん)等(とう)は福(ふっ)過(か)十(じゅう)号(ごう)疑(うたが)い無(な)き者(もの)なり。



 先週に引き続き『四(し)信(しん)五(ご)品(ほん)抄(しょう)』を拝読(はいどく)いたしました。
 先週も申しましたが、この『四(し)信(しん)五(ご)品(ほん)抄(しょう)』というのは、富木(とき)殿(どの)が御(ご)法門(ほうもん)について大(だい)聖(しょう)人(にん)様(さま)にお伺(うかが)い申し上げた。その事に対する重(じゅう)要(よう)な御指(ごし)南(なん)を下された御(ご)書(しょ)であります。

 で思いまするに、富木(とき)殿(どの)はおそらくこういうような質問(しつもん)を大(だい)聖(しょう)人(にん)様(さま)に申し上げたと思われるんですね。

 「近頃、天台(てんだい)・真言(しんごん)等の学者(がくしゃ)達が『大(だい)聖(しょう)人(にん)の門下が、ただ南無(なむ)妙(みょう)法蓮(ほうれん)華(げ)経(きょう)と唱えるだけの修(しゅ)行(ぎょう)をもってする』と。これを見てあなずって『法華(ほけ)経(きょう)を修(しゅ)行(ぎょう)するには三学(さんがく)を具(ぐ)さなければいけない(「三学(さんがく)」というのは戒(かい)・定(じょう)・慧(え)の三学(さんがく)ですね)。このうち一つを欠(か)いても法華(ほけ)経(きょう)の修(しゅ)行(ぎょう)にはならないんだ』とこんな事を言(い)っておりまするが、いかがでございましょうか」

というような質問(しつもん)を申し上げたと思われるんですね。
 (戒(かい)・定(じょう)・慧(え)というのは、法華(ほけ)経(きょう)を修(しゅ)行(ぎょう)するのに、釈(しゃ)迦(か)仏(ぶつ)の決めた戒律(かいりつ)と、それから「定(じょう)」といって心を定(さだ)め、静めていく(禅(ぜん)定(じょう)ですね)この修(しゅ)行(ぎょう)と、それから「智恵(ちえ)の修(しゅ)行(ぎょう)」といって、哲学的(てつがくてき)な思(し)索(さく)によって「一念(いちねん)三千(さんぜん)の観法(かんぽう)」とか)「『こういうような事をしなければいけないんだ』などと天台(てんだい)・真言(しんごん)の学者(がくしゃ)が誇(ほこ)らしげに知(し)りたげに言(い)っておりまする」と。
 この質問(しつもん)に答えて大(だい)聖(しょう)人(にん)様(さま)が「これは極(きわ)めて重(じゅう)大(だい)な事である」と仰(おお)せられて『四(し)信(しん)五(ご)品(ほん)抄(しょう)』を下されたんですね。
 これこそまさに、熟(じゅく)脱(だつ)の釈(しゃ)迦(か)仏法(ぶっぽう)に対して

「末法(まっぽう)においては、下(げ)種(しゅ)のこの三大(さんだい)秘(ひ)法(ほう)でればならないんだ」

という事の大転換(だいてんかん)を御(お)示(しめ)し下されたんです。
 末法(まっぽう)の三毒(さんどく)強(ごう)盛(じょう)の大(たい)衆(しゅう)は下(げ)種(しゅ)の機(き)ですよ。釈(しゃ)迦(か)仏法(ぶっぽう)では成(じょう)仏(ぶつ)できない。

 ここに、久(く)遠(おん)元初(がんじょ)の自(じ)受(じゅ)用身(ゆうじん)の御(ご)本仏(ほんぶつ)が御(ご)出(しゅつ)現(げん)せられて、三大(さんだい)秘(ひ)法(ほう)の下(げ)種(しゅ)の御化(ごけ)導(どう)をあそばす。この事を大(だい)聖(しょう)人(にん)様(さま)が今富木(とき)殿(どの)に、その修(しゅ)行(ぎょう)の上から、信(しん)行(ぎょう)の上からこれを御(お)教(おし)え下されたものであります。

 ですから、冒頭(ぼうとう)に

「末代(まつだい)初心(しょしん)の者(もの)は、檀戒(だんかい)等(とう)の五度(ごど)を制(せい)止(し)して、一向(いっこう)に南無(なむ)妙(みょう)法蓮(ほうれん)華(げ)経(きょう)と称(となえ)せしむるを一念(いちねん)信(しん)解(げ)初随(しょずい)喜(き)の気(け)分(ぶん)と為(な)すなり」と。

「末法(まっぽう)の一切(いっさい)衆(しゅ)生(じょう)の修(しゅ)行(ぎょう)としては、釈(しゃ)迦(か)仏法(ぶっぽう)の檀戒(たんかい)等は絶対やってはいけない」

 これは「布施(ふせ)行(ぎょう)」というそういう修(しゅ)行(ぎょう)だとか(要するに、自分の財物等(ざいもつとう)をみんなに寄付(きふ)する)「このような事をやる必要(ひつよう)はない」と。
 あるいは「様々な戒律(かいりつ)など持つ必要(ひつよう)もない」と。
 「ただ御(ご)本尊(ほんぞん)を信じ、南無(なむ)妙(みょう)法蓮(ほうれん)華(げ)経(きょう)と唱える。これがすなわち一念(いちねん)信(しん)解(げ)初随(しょずい)喜(き)の立(たち)場(ば)の信心(しんじん)なんだ」とこう仰(おお)せになられる。
 そして、先週拝読(はいどく)した所ではこういう事なんでしょう

「世間の者が『大(だい)聖(しょう)人(にん)の弟子(でし)は、何にも意味(いみ)が分からなくて南無(なむ)妙(みょう)法蓮(ほうれん)華(げ)経(きょう)と唱えている。そのような事でもって果(は)たして功(く)徳(どく)があるのか』と」

 これすなわち「一念(いちねん)信(しん)解(げ)の功(く)徳(どく)」という事を大(だい)聖(しょう)人(にん)様(さま)はここで御(お)示(しめ)しになっておられて、その質問(しつもん)に対してお答えになられて曰(いわ)く

「小(しょう)児(に)乳(ちち)を含(ふく)むに其(そ)の味(あじわい)を知(し)らざれども自(じ)然(ねん)に身(み)を益(やく)す。耆婆(ぎば)が妙(みょう)薬(やく)誰(たれ)か弁(わきまえ)えて之(これ)を服(ふく)せん」と。

「生まれたばかりの赤ん坊が、その栄養(えいよう)成分(せいぶん)は全(まった)く理(り)解(かい)がないけれども、お母さんのおっぱいを飲めばすくすくと成(せい)長(ちょう)するではないか」
「耆婆(ぎば)という名医の作った薬は、飲めば必ずみんな病(やまい)を治(じ)した。
 しかし、一人としてその成分に対して認識(にんしき)をもっている者はいなかった」
「このように、末法(まっぽう)の三大(さんだい)秘(ひ)法(ほう)の修(しゅ)行(ぎょう)というのは御(ご)本尊(ほんぞん)のお力によるのであって、理(り)解(かい)するとかしないとかではないんだ」と。

 「薬に力があれば、理(り)解(かい)しなくても、薬の力が直(ただ)ちに体に作(さ)用(よう)するように、末法(まっぽう)においては、この御(ご)本尊(ほんぞん)様(さま)の意味(いみ)・南無(なむ)妙(みょう)法蓮(ほうれん)華(げ)経(きょう)の意味(いみ)、このような事がわからなくとも『有難(ありがた)い』という思いでもって信じ南無(なむ)妙(みょう)法蓮(ほうれん)華(げ)経(きょう)と唱えれば、御(ご)本尊(ほんぞん)様(さま)のお力によって、自然と凡(ぼん)夫(ぶ)の命に作(さ)用(よう)されてきて凡(ぼん)夫(ぶ)が仏になるんだ」

という事を先般(せんぱん)はお教え下された。
 これはすなわち一念(いちねん)信(しん)解(げ)の功(く)徳(どく)を御教え下されたんですね。


平成20年 3月23日 浅井先生指導