しんほんしょう』にたまわく
 う、らざるひとただ南無なむみょう法蓮ほうれんきょうとなうるに、解義げぎどくするやいなや。こたう、しょうちちふくむにあじわいらざれどもねんやくす。耆婆ぎばみょうやくたれわきまえこれふくせん。



 この『しんほんしょう』は、だいしょうにんさまが、御年おんとし56歳のけん3年の4月に富木ときじょうにんたまわったしょであります。
 富木ときじょうにんという方は(今の千葉ちばけん市川いちかわですね)、当時においての下総しもふさの国葛飾かつしかごおり若宮わかみやという所に住んでおりまして、その若宮わかみやとうしょくつとめたりょうしゅであった人であります。
 そして、鎌倉かまくらばくもんちゅうしょ(すなわち今でいう裁判所さいばんしょですね)、そこにつとめておった文官ぶんかんであります。
 にゅうしんじょうに古いですね。だいしょうにんさまりっしゅうの翌年けんちょう6年のにゅうしんという事でありまするから、門下の中においてはじょう殿どのと並ぶさいさんの方、信心しんじん強き方ですね。
 ですから、この下総しもふさの方から房総ぼうそうにかけて、しゃくぶく先陣せんじんを切って戦いを進められた方でしてね、武士ぶしを次々ににゅうしんさせております。
 『三大さんだいほうしょう』をいただいたおおきん、そして、あるいは『法蓮ほうれんしょう』をいただいた曽谷そやきょうしん金原きんばらほっきょうとか錚々そうそうたる武士ぶし房総ぼうそう方面においてにゅうしんさせて、まさに、房総ぼうそうから関東かんとうにかけての一門のじゅうちんですね。
 だいしょうにんさまが『りっしょう安国あんこくろん』の後に、ただちにまつ葉ヶばがやつ法難ほうなんをお受けになった。この富木とき殿どのは、その時にだいしょうにんさまを自宅の仏堂ぶつどうにお迎え申し上げて、御守護を申しげてるというほどの人であります。
 でこの方は大変学識がくしきがあってきょうがくがあったんですね。
 ですから、この方にたまわったしょというのはほとんど全部漢文かんぶんですね。
 じょうむずかしい漢文かんぶんでもって御述おのべになっておられます。
 『かんじんの本尊ほんぞんしょう』を始めとして『佐渡さどしょ』『ほっ取要しゅようしょう』『しょうにん三世さんぜのこと』『もんぶつじょう』などのだい法門ほうもんじゅうしょをこの方にたまわわっておられます。
 でこの『しんほんしょう』もそのうちの一つでありまするが、ことに私は

「この富木とき殿どの功績こうせきというのは、じゅうしょちゅうじゅうしょといわれた『かんじんの本尊ほんぞんしょう』の真蹟しんせきそのものをそのまま残らず現在げんざいまでぞんした」

という事だろうと思いますね。
 『かんじんの本尊ほんぞんしょう』の真蹟しんせきを拝見いたしますると(私は、写真しゃしんしゅうをもってそれを拝見するわけでありまするが)、今のはんよりもっと大きな和紙わしに、だいしょうにんさまがまさに仏魂ぶっこんりんてんくうを行くようないきおいの筆勢ひっせいでもって

にょらいのめつ後後五ごごごひゃくさいにはじむかんじんの本尊ほんぞんしょう

とこう題をおしたためになってずーっとお書きになっておられる。
 佐渡さどは紙がないですから、表だけじゃないですよ。おもてうらおもてうらとぎっしりおきになっておられる。
 まことに、ぎょうかんだいしょうにんさま息遣いきづかいが聞こえるようなそういう気持きもちがいたします。
 で、真蹟しんせきの紙のすみもんがあります。
 これは、だいしょうにんさまが、その紙を御取おとりになる時に、すみでもって親指おやゆびよごれて、そしてもんが残っておると思うんですね。ぶるいするような感じがいたしまするが、このようにだいな『かんじんの本尊ほんぞんしょう』を全部残らず今日こんにちに伝えたというのは富木とき殿どの功績こうせきであります。
 この『しんほんしょう』も、真蹟しんせき現在げんざいまでぞんされております。


平成20年 3月16日 浅井先生指導