そして、只今ただいまもんですね。

 「いかにもこん信心しんじんをいたして法華ほけきょうぎょうじゃにしてとをり、日蓮にちれん一門いちもんとなりとをたまうべし。日蓮にちれんどうならば地涌じゆさつたらんか」と。

佐渡さどだいしょうにんさまにおいしてにゅうしんをしたこの最蓮房さいれんぼうに対して

こん信心しんじんをした以上、法華ほけきょうぎょうじゃにて通し切りなさい」とおおせられる。

 そして

日蓮にちれん一門いちもんとなりとをたまうべし」

だいしょうにん弟子でしという立場をつらぬき通しなさい。ちゅうでフラフラしてはいけない」

日蓮にちれんどうならば地涌じゆさつたらんか」

だいしょうにんさまどうする者はことごとく地涌じゆさつなんだ」

 「どう」という事はどういう事か「だいしょうにんさまおおせが理解できた」などそんなうすっぺらなものではない。

 「日蓮にちれんだいしょうにんを命かけて信じまいらせ、南無なむみょう法蓮ほうれんきょうとなたてまつる。そして、広宣こうせん流布るふけつに立つ者」

 これがすなわちだいしょうにんさまどうたてまつる」という事。
 で「この者は、ことごとく地涌じゆさつである」とこうおおせになる。
 そして

末法まっぽうにしてみょう法蓮ほうれんきょう五字ごじひろめんもの男女なんにょはきらうべからず。みな地涌じゆさつしゅつげんあらずんばとながた題目だいもくなり」

末法まっぽうにおいて、また広宣こうせん流布るふする以前において、国中の者が反対する中において、健気けなげにこの大法だいほうひろめる、南無なむみょう法蓮ほうれんきょうを人にもすすめる。そして、みずからもとなえる。こういう者は、男か女とかそういう男女だんじょの区別はまったくない。
 ことごとく皆、地涌じゆさつしゅつげんでなかったならばどうしてこのお題目だいもくとなえる事ができるであろうか」

とこうおおせになっておられる。


平成20年 6月8日 浅井先生指導