「同じき十月十日に依智を立って、同十月二十八日に佐渡の国へ着きぬ。十一月一日に六郎左衛門が家のうしろみの家より塚原と申す山野の中に、洛陽の蓮台野のやうに死人を捨つる所に、一間四面なる堂の仏もなし、上はいたまあわず、四壁はあばらに雪ふりつもりて消ゆる事なし。かかる所にしきがわ打ちしき蓑うちきて、夜をあかし日をくらす。夜は雪・雹・雷電ひまなし、昼は日の光もささせ給わず、心細かるべきすまゐなり。彼の李陵が胡国に入りてがんかうくつにせめられし、法道三蔵の徽宗皇帝にせめられて面にかなやきをさゝれて江南にはなたれしも、只今とおぼゆ」
流罪の地佐渡の状況をお示しになられた段であります。
「同じき十月十日に依智を立って」と仰せになっておられる。
10月10日と申しますると、竜の口の大法難が9月12日でありますからそれから約一月間ですね。
何と、一月に渡って大聖人様は依智に逗留あそばされた。
なぜこうなったのか、実は幕府そのものが茫然自失してしまったんですね。
竜の口でもって頸を切ろうとして切れず、国家権力が大聖人様の御威徳にひれ伏してしまった。
その大聖人様の御威徳に恐れおののいて「さてどうしたものか」判断がつかなくなってしまった。
大聖人様をどう扱っていいかわからなくて、考えがまとまらないままそのまま「とりあえず、依智の本間六郎左衛門という佐渡の守護代に身柄を預けたという事なのであります。
ところが、この1ヶ月の間に良観房が画策したんですね。
「もしこのまま大聖人様が許されたならば大変な事になる」という事で鎌倉中で火をつけて方々で殺人事件を起こしたんです。
そしてそれを「みんな大聖人の弟子どもが幕府を恨んでこのような犯罪をやっている」とデマを言いふらした。
それはことごとく良観の手下どもがやった事であるが、そのような陰謀の傍らで平左衛門をもう一回煽動して「何としても殺さなければいけない」という事を言った。
そして、平左衛門が一月後にいよいよ佐渡へ流罪という事を決めて、流罪が実行されたわけであります。
そして、この流罪というのは表には流罪でありますけれども、内には「佐渡で必ず殺す」という事を平左衛門は決めておったんですね。
良観が裏でもってそれを策謀しておったわけであります。
そこで、10月10日にいよいよ依智をお発ちになった。
依智というのは今の神奈川県の厚木市ですよね。
そこをお発ちになって、同じく18日後の28日に佐渡の松ヶ崎という所にお着きになった。
この間には海がありますから、依智をお立ちになって、12日間かかって新潟の寺泊という海岸(佐渡の向かいでありまするが)そこまで到着された。
そこで船をお待ちになって、佐渡の国着いたのが10月28日である。
まことに、この間依智から18日間でしょう。その間の道の間の事。
先般も申しましたが、民衆はことごとく念仏の坊主に煽動されておりますから、大聖人を見奉る事「阿弥陀仏の敵」というんで氷のような鋭い目をして睨みつけた。
先般の総幹部会でもって引用しましたが
「鎌倉を出でしより日々に強敵重なるが如し。ありとある人は念仏の持者なり。
野を行き、山を行くにもそばひらの草木の風に随ってそよめく声もかたきの我を責むるかとおぼゆ」
というような状況の中に大聖人様は歩まれたわけであります。
で、依智から鎌倉街道を下って埼玉県をお通りになった。
埼玉県の児玉、群馬県の藤岡、高崎を経て安中を通り、碓氷峠、小諸、そして、善光寺を通る北国街道というのがありまするが、その街道を通って新潟県の寺泊に抜けられた。これまで何と380kmですね。
この難儀の道のりを大聖人様がお歩きになられた。畏れ多い事であります。
で今度分かったんですが、信州会館が今年の秋に建ちまするが、この信州会館の脇に小さな街道が通っているんですね。
その街道に直角に30mの新しく作っている道路がある。
その角地に信州会館が建つんですが、その脇を通っている古い小さな道路、これが北国街道なんです。
何と、大聖人様がその道をお通りになったその傍らに信州会館が建てられるという事はまことに何とも言えない御在世を偲び奉って『有難い事だ』とおもっております。
さて、この北国街道をお通りになって佐渡の国の松ヶ崎という所にまずお着きになった。
そして、11月1日にいよいよ塚原三昧堂という決められた配所にお入りになったんでしょう。
佐渡の国に着いたのが28日で翌月の1日に塚原三昧堂でありまするから、これまでもなお3日間もかかっているんですね。
吹雪で前が見えない深い雪の中を一歩一歩踏み分けて歩かれ、3日間かかって塚原三昧堂に着いた。
本間六郎左衛門の家の近くの裏を見る監視所の所がずっと塚原という原っぱだったんです。
死人を捨てる洛陽(京都)の蓮台寺と同じように、塚原という所は死人を捨てる所であった。佐渡でもって死人が出るとみんなそこに集めて捨てたんですね。
死人を捨てる所でありまするから、その中央に小さな堂が立っておったんですね。そこに何と「大聖人様を住まわせよう」という事だったわけであります。
何と、その堂という物は名前はかっこいいですが、広さは一間四面というんでしょう。
メートルに換算すると1m80cm四方、畳わずか2枚であります。
しかも、上を見れば屋根は隙間だらけで周りの壁はあばらになっておって風は吹きぬけておる。
ですから、雪が床に降り積もって消える事がない。1日中雪が消えない。表と同じですね。物凄い所であります。
このようなすさまじい所に大聖人様を住まわせたわけであります、悪意であります。
このような所に敷皮を引いて、蓑を着て日を明かし夜を暮らす。
蓑というのは、今着けている人はないでしょうけれども、ついこの間まで農家の人達はみんなこれを着けて農作業をやったものですよね。
萱や杉などの藁でもって編んで、肩に引っ掛けて使うんですが、いわゆる表で使う雨具であります。これを何と大聖人様は塚原三昧堂の中でお着になった。
何しろ、家の中に雪が降ってきて、積もって消える事がないという外と同じような所である。
夜は雪や霰が降り稲妻が終わる事なく光り渡っている。昼は日の光も射さない。まことに心細い住まいである。
ここで大聖人様がおっしゃるには、昔の中国の武将で李陵という者が敵に捕らわれて、厳崛に何年も何年も閉じ込められて故郷に帰る事ができなかった。それと同じような状況である。
あるいは、中国の法道三蔵という僧侶が仏法を嫌う徽宗皇帝という国主を諌めて迫害を受けて、顔に金焼をさされて江南に流された。
「その故事も只今の自分の境界と同じように思われる」とおっしゃる。
まことに、当時の佐渡というのは寒冷期でありまして今の状況とは違います。
恐らく当時の佐渡というのは零下20℃から30℃を超える極寒であります。
その中で大聖人様は防寒具一つもお持ちではないんでしょう。薄い衣1枚であります。
その上、食料もないから普通なら3日でもって凍え死んで当たり前の事であります。
なぜ平左衛門はこのような所に大聖人様を押し込め奉ったか。殺すつもりであります。
「手を出さなくとも必ずここでもって飢え死にする。凍え死にする」という事を企んで極寒の塚原三昧堂に大聖人様を押し込め奉った。
で大聖人様が依智をお発ちになる時に日興上人を始めとしてさらに幼い小僧さんたちが数人お供についたんですね。
そしてさらに富木殿の下人や入道がいた。
しかし、大聖人様は富木殿の下人は依智で帰しておられる。
それから、佐渡に着いた直後にこれら幼い少年僧を全員帰しておられる。
「この過酷な飢えと寒さの中で、幼い者は到底命が持つはずもない」という事で直ちに帰しておられる。
ここに、佐渡に向かったのは大聖人様ただお一人。御側に仕える方は26歳の日興上人ただお一人という状況でもってこの厳しい状況を乗り越えられたわけであります。
『法蓮抄』を拝見すれば
「衣薄く、食ともし。現身に餓鬼道を経、寒地獄に堕ちぬ」
と仰せになっておられる。
衣は薄く、食べる食料とてない。現身に餓鬼道を味わい、そして八寒地獄というものを味わうような気持ちである。
まことに、これが仏界所具の地獄界・餓鬼界ですね。
「十界互具」と申しまするが、大聖人様の御境界の中にもこのように寒さと飢えの地獄界・餓鬼界がおありになる。
これも、一切衆生を救済されるための仏界所具の地獄界・餓鬼界なのであります。畏れ多い限りですね。
平成15年 3月6日 『下種本仏成道御書』御書講義
- 説明
- 『下種本仏成道御書』の精神
- 佐渡までの道中と塚原三昧堂での御難儀
- 下種御本仏の外用と内証
- 人をよくなすものは方人よりも強敵
- 阿仏房・千日尼夫妻の命懸けの帰依
- 佐渡の邪宗の坊主達の悪巧み
- 東日本の邪宗の坊主達が佐渡に集結
- 日蓮大聖人の理路整然たる破折
- 自界叛逆の御予言
- 『開目抄』の御聖意
- 本間六郎左衛門の帰依
- 日蓮によりて日本国の有無はあるべし
- 大罰の中に広宣流布・国立戒壇建立は成る
