悪王あくおうしょうぼうやぶるに、邪法じゃほう僧等そうとう方人かたうどしてしゃうしなはんときは、師子ししおうごとくなるこころてるものかならほとけになるべし」

末法まっぽうにおいて、この南無なむみょう法蓮ほうれんきょうひろめる時には恐ろしい大難だいなんがある。
 それは、けんりょくを持った悪王あくおうが『その仏法ぶっぽうかいしてしまおう』と思うのだ。
 その時、影で煽動せんどうした邪法じゃほうぼうらがみんなその悪王あくおうの味方となって、ただ一人いちにんしゃうしなわんとする時、命をうばわんとする時」

師子ししおうごとくなるこころてるものかならほとけになるべし」

「この恐ろしいざいざい、それを恐れずに、なお南無なむみょう法蓮ほうれんきょうを強くひろめようとするお方があれば、その方がほとけさまなんだ」と。

 そして

れいせば日蓮にちれんごとし。これおごれるにはあらず。しょうぼうおしこころごうじょうなるべし」

「たとえば、だいしょうにんさま御振おふいこそそのどうなのだ」

とおっしゃる。

 「これは、おごって言うのではない。ただ南無なむみょう法蓮ほうれんきょうの唯一のじょうぶつしょうぼう大法だいほうしむ心が強いからなのである」

おおせになって

おごれるもの強敵ごうてきいておそるる心しゅったいするなり。
 れいせばしゅおごたいしゃくめられてねっはちすの中にしょうしんってかくれしがごとし」

 慢心まんしんから強がる者、これを「おごり」というんですね。
 ですから、慢心まんしん確信かくしんとはちがいますね。
 ちょっと見ると、慢心まんしんしている者はいかにも強そうに見えますけど、その慢心まんしんと、仏法から生ずる確信かくしんというのは天と地ほどのそうがある。

 「おごる者は、自分より強い者に会うと恐れる心が出てしまうのだ」と。

 例えば、しゅというのはつね威張いばって強がるんですね。

 「このしゅりというのは、たいしゃくに責められて、ねっはすの中に小さな身となってかくれてしまったではないか」

 「しょうぼういちいっなれども時機じきかないぬればかなら得道とくどうなるべし。
 せんきょう万論ばんろんしゅうがくすれども、時機じきそうすればかなからず」

仏法ぶっぽうというのは、ただいちいっなれども、その時にかなったしゅぎょうをするならばかなら得道とくどうがある。
 そうではなくて、その当時の天台てんだいしゅうぼうごとくに、法華ほけきょううしなわれんとする時に守りもしないという道心どうしんの者は、いかにきょうもんそらんじてもじょうぶつする事はない」

おおせになる。
 だいしょうにんさまが、南無なむみょう法蓮ほうれんきょう五字ごじしち、これを、一切いっさいしゅじょうに飲ませんとして、母のせきの口にちちふくめんがごときこのだい慈悲じひによって、これを妨害ぼうがいするどんな大難だいなんが来ようとも、だいしょうにんさまは、しんみょうしまぬしゅぎょうをあそばした。
 そのしゅぎょうの結果、たつくちにおいておん元初がんじょじゅ用身ゆうじんじょうどうげ給うた。末法まっぽうしゅ本仏ほんぶつあらわれ給うた。
 これがすなわち

師子ししおうごとくなるこころてるものかならほとけになるべし」

という事なのであります。


平成20年 11月2日 浅井先生指導