さんに渡って壊れざるその金剛こんごう不壊ふえだいきょうがい
 ぼんはそのようなさとりをこすことはできない。
 しかし、ぼんもまただいしょうにんさまと同じ命を持っている。
 よく見てごらんなさい。私たちはどこから生まれてきたか。このだいちゅうから生じた自分の命の当体とうたいです。
 されば、ちゅう全分ぜんぷんちゅう存在そんざいするすべては物質的ぶっしつてきに全部自分にそなわっている。
 そうでしょう。この間もせいに行ったたん査機さきがありましたが「はやぶさ」か。
 あれがせいへ行って、そして、せいから目にも見えないちりをつまんで取ってきたでしょう。
 しかしそれをさい検討けんとうしてみると、小さなちりの中にすべての物質ぶっしつそなわっているということで今それを分析ぶんせきしている所なんですが、そのように、小さなちりの中にもだいちゅうのいろんな物質ぶっしつすべそなわっている。
 ですから、にっかんしょうにんおおせになっておられる。

 「一塵いちじんじゅっ法界ぽうかいくし、そして、一念いちねん法界ほうかいあまねし」

 例えば、一滴いってきの水の中に太平洋たいへいよう全分ぜんぶん成分せいぶんが含まれている。
 しかもその一滴いってきをまた戻せば、ぜん太平洋たいへいよう遍満へんまんする。
 これと同じように、ちゅう全分ぜんぶんを含み、そして、我が一念いちねんはまたちゅう遍満へんまんする。
 これが、いわゆる「法界ほうかいしんひらく」というほとけさまだいきょうがい、それをじつの上にしょうとくされた物が本仏ほんぶつじゅ用身ゆうじん当体とうたいなんです。
 私達にはそんなことができるわけがない。
 そこで、だいしょうにんさまだい慈悲じひこして本尊ほんぞんをおしたためくださった。
 私達は、何も分からなくてもこの本尊ほんぞんを信じ南無なむみょうほうれんきょうとなえるうちに、だいしょうにんさま一体いったいきょうがい信心しんじんで自然とならせていただく。
 しゃべってみろとわれてもしゃべれない。悟ったのかどうかも分からない。
 しかし、自然とそういうじょうぶつのリズムになるということはどういうしょうがあるか。
 自然と、誰にも壊されないよろこびの心が出てくるんです。
 「南無なむみょうほうれんきょうかんの中のだいかんだ」というおこともありまするが、自然と何か「ああ有難ありがたことだ」という気持きもちが出てくるんですね。
 これはもう観念論かんねんろんじゃない。本当にそういうような「有難ありがたい」というかんの心がきてくる。
 よく私は顕正新聞を読んで感激かんげきしますがね、体験たいけんはっぴょうなんかで「うちのおばあちゃんが亡くなった」「りんじゅうが近づいてきたらいつもっていることは『有難ありがた有難ありがたい』ということかえしている」こういう人達はうまいことひょうげんできなくとも、自然とじゅ法楽ほうらくだいしょうにんさまのそのないしょうはいらせていただいた。
 だから、りんじゅうの時に今度はゆうじょうぶつといって本当にじょうぶつそうげんずるんです。さとりはないけどそうなんですね。
 例えば、生まれたばかりのども母親ははおやのひざにかれて新幹線しんかんせんる。
 時速200kmでどうしているが、かくも何にもない。
 だけど、母親ははおやのひざにいだかれていれば同じように200kmのスピードで走る。
 私達にさとりはないけれども、だいしょうにんさま生命せいめいを顕わされた、おさとりの全体を顕わされたこの本尊ほんぞんを信じ南無なむみょうほうれんきょうとなえることによって、本尊ほんぞん仏力ぶつりき法力ほうりきによってぼんが仏にならせていただけるというわけなのであります。
 ですから

きょうたもたてまつほか遊楽ゆうらくはなし、げん安穏あんのんしょう善処ぜんしょとはこれなり」

本尊ほんぞんを信じ、南無なむみょうほうれんきょうとなえるより他に遊楽ゆうらくはない。げん安穏あんのんしょう善処ぜんしょというのはこれなんだ」

ということがよく分かりますね。
 懇々こんこんだいしょうにんさま御指ごしなんくだされている。


平成24年 5月13日 浅井先生指導