じょうきん殿どのへんたまわく
 一切いっさいしゅじょう南無なむみょうほうれんきょうとなうるよりほか遊楽ゆうらくなきなり。
 きょういわく「しゅじょうしょ遊楽ゆうらく云云うんぬん
 もんあにじゅ法楽ほうらくあらずや、しゅじょうのうちに殿でんもれたまうべきや。
 しょとは一閻いちえんだいなり。ほんごくえんだいうちなり。
 遊楽ゆうらくとはわれ色心しきしんしょうともに一念いちねん三千さんぜんじゅ用身ゆうじんほとけにあらずや。
 きょうたもたてまつほか遊楽ゆうらくはなし、げん安穏あんのんしょう善処ぜんしょとはこれなり。
 ただけんなんきたるともたまうべからず。賢人けんじんしょうにんことのがれず。
 ただにょうぼうさけうちみて南無なむみょうほうれんきょうとなたまへ。
 をばさとり、らくをばらくひらき、らくともおもあわせて南無なむみょうほうれんきょうとうちとなへゐさせたまへ。これあにじゅ法楽ほうらくあらずや。
 いよいよごうじょう信力しんりきをいたしたまへ。



 けん2年にじょうきん殿どのたまわったしょであります。
 じょう殿どのという方はほうじょう一門いちもんゆうりょくしゃの一人である江馬えま光時みつときという人におやだいに渡ってつかえたしんでありまして、ちゅう一筋ひとすじ典型的てんけいてき鎌倉かまくら武士ぶしであります。
 この人はげい達人たつじんですね。そして、学問がくもんにもなかなかすぐれ、何よりも、めいほまれ高かった。じゅつに非常にすぐれておった<しゃであったわけですね。
 ですから、主君しゅくんからもことのほかちょうあいを受けて信頼しんらいあつかった。
 にゅうしんは、だいしょうにんさまの立宗がけんちょう5年でありまするが、その3年後のけんちょう8年のにゅうしんというからもんの中でもさいさんですね。27歳でにゅうしんをした。
 以来、71歳でもって亡くなるまで、しょうがい退たい信心しんじんつらぬかれたという宿しゅくえんの深い人であります。
 何とってもこのじょうきん殿どのの最大の奉公ほうこうは何かと申しますると、あのたつくちにおける御供おんともですね。
 だいしょうにんさまはこの時召人めしうどでありますから、大勢おおぜいの弟子がついていくこと到底とうていできない。
 しかし、だいしょうにんさまじょう殿どのにだけ使いをつかわして「これから」ということをお知らせになったんですね。
 それで、じょう殿どのが何度もおどろいて、裸足はだしで我が家を飛び出して、だいしょうにんさまのお乗りになっているその馬のくつわを取って、泣きながらたつくちまで御供おんとも申し上げた。
 そして、いよいよくびの座を見た時に、あの剛勇ごうゆうじょう殿どの只今ただいまなり」ってごうきゅうしたというんですね。
 この時だいしょうにんさまじょう殿どのに対して

かくのとのばらかな。これほどのよろこびをばわらへよかし」

おおせになられた。
 この時じょう殿どのは『もし万一まんいつにもだいしょうにんさま御頸おんくびが切られたならば、その場を去らずして追い腹切って御供おんともせん』とのこの心をかためていたわけなんです。
 だいしょうにんさまがその心をお知りになって、後年こうねんこういうことおおせになっておられる。

殿とのはららんとせしこと、いつのにかわすれん」

ということおおせになってじょう殿どのちゅうせいを深くしょうさんあそばされております。


平成24年 5月13日 浅井先生指導