さて、私は今世間のとが一分いちぶんもなきだいしょうにんさまたつくちの大法難においていかなる罪名ざいめいを着せられたかについて深くおもいをめぐらせております。
 その罪名ざいめいは何とほんですね。国を乱す者、いわゆるこくはんですよ。
 この罪名ざいめいだいしょうにんさまに当時のじゃしゅうの坊主とけんりょくしゃはつけたわけであります。
 これよりほかだいしょうにんさまを死罪にする口実こうじつはなかったんですね。
 だいしょうにんさまぶっぽうの上ではあまりにりっすぎる。あまりに正しい。
 そこで、ぶっぽうの上でもってだいしょうにんさますきをつくことはできない。
 あとだいしょうにんさまおとしいれるのはほんとがというありもしないとがを着せたわけであります。
 すべては、りょうかんへいのさもん結託けったくによるぼうりゃくであります。
 りょうかんは当時国中に充満する念仏ねんぶつ真言しんごんぜんりつとうじゃほうあくそうたちだいひょうかくですね。
 念仏ねんぶつ真言しんごんぜんりつとうは宗派はちがうけど、みんなだいしょうにんさまに対してはじゃほうであるという立場であってみんな連合れんごうしておったんです。そのだいひょうかくりょうかんというおとこであります。
 「戒律かいりつを固く保ち」ということをみんなに見せかけておった。
 「自分はひゃくじゅっかいといって250もの戒律かいりつを保っている」などという見せ掛けをみんしゅうの前ではしておった。ぜんぎょうも起こしている。
 この男、どうをいくつ作ったんですかね。ひゃくなんじゅうですね。橋もそうであります。
 みんしゅうには生き仏のごとくおもわれておりましたが、その実態じったいというのは極めつきのかいぼう、そして、ぜんぎょうに名を借りてみんしゅうから金をしぼっていたぜんしゃですね。
 また、へいのさもんほうじょう一門のほん得宗とくそうというんですが(ほうじょうにも色々いろいろりゅうがありますがその中でほん)、これが、ほうじょう時頼ときよりほうじょう時宗ときむねという者がいるのがほんでありまするが、このほんこと得宗とくそうというんですが、この得宗とくそうれい(すなわち取り締まり)をやっておったぐんしょうあくしているさむらいどころれいかんであります。
 さらに、検断けんだん権者けんじゃ、すなわち、こくはん検索けんさく検挙けんきょしんする権限けんげんを持つばく内では最大のじつりょくしゃであった。
 文永5年正月に大蒙古から国書こくしょ到来とうらいし、国中がおそれおののいたんですね。
 これこそ、だいしょうにんさまが『りっしょうあんこくろん』にげんあそばしたこく侵逼しんぴつまえれであります。これがじつになれば国はほろぶ。
 ここに、だいしょうにんさまは「こうじょうたいけつによってぶっぽうじゃしょうを決して国を救わん」とじゅう一通いっつうもうしじょうしょしゅうだいひょうに送られた。
 しょしゅうあくそうたちだいしょうにんさまとのほうろんたいけつなどできるわけがない。彼らはめられたんです。
 そして、められるにしたがって、物凄い憎悪をだいしょうにんさまいだいた。
 たまたまこの時にだい旱魃かんばつがあった。ばくりょうかんぼう(雨の祈り)を命じたんです。
 りょうかん一種いっしゅ通力つうりきがあったんですね。これが、通力つうりきなんですね。
 ですから、彼はそれまでは雨を降らせるというようなことができたというんです。
 そこで、自分がに自信があったから、ただちにこのばく命令めいれいを受けて「七日なのかのうちに降らせる」とこう公言こうげんをしたんです。
 これを耳にされただいしょうにんさまは、ぶっぽうじょうほうろんには応ぜぬりょうかんに対して「雨の祈りのげんしょうをもってぶっぽうじゃしょうを決せられん」とおおせられた。
 本当は、雨の降る降らないということは成仏には関係かんけいないですよ。
 しかし、ぶっぽうじょうの教義で論ずることりょうかんは逃げている。それならば、雨が降るか降らないか、このげんしょうぶっぽうじゃしょうを決する。
 どうですか「7日のうちに降らせる」とりょうかんった。7日のうちに降るか降らないか、このような一つのこといっす。
 だいしょうにんさまりょうかんぼう二人を呼んでこうもうし渡されたんです。

 「七日なのかのうちに雨が降ったならば、日蓮にちれん念仏ねんぶつげんもうす法門を捨てて、りょうかんぼうとなる。
 しかし、もし雨が降らなかったら、りょうかんぼう日蓮にちれんとなれ」ということりょうかんの方につたえたんですね。

 このようなたいけつ、雨の降る降らないでもっていっしゅうしょうはいを決する。こんなことはよほどの確信かくしんがなければできない。
 ここに、ぼんでは到底できないしょてんもうし付けるこの絶対ぜったいけんがあるだいしょうにんさまにして初めてこのたいけつができるわけであります。
 りょうかんはよほど自信があったんでしょう。喜んでこれを受けたんですね。「よしかった勝負しよう」ということで受けた。
 だが、七日なのか経っても一滴いってきの雨も降らなかった。
 あせったりょうかんは「もう七日なのかかん待ってくれ」とえんもうし出たんですね。だいしょうにんさまは「よろしい」とおゆるしになった。
 りょうかんは前にも増して大勢を呼んできて、みんなに一斉いっせいねっきょうてきとうをさせたんです。
 しかし、ながれるのはあせなみだばかり。ついに雨は一滴いってきも降らなかった。
 この雨の祈りの完敗かんぱいりょうかんの地位を危うくするだけではない。りょうかんいっ存亡そんぼうにも関わるだいげきであった。
 ここにりょうかんは「何としてもだいしょうにんを亡き者にせん」と卑劣なぼうりゃくをめぐらしたのであります。
 それが、念仏ねんぶつそうぎょうびんを使っての訴訟ですね。
 ぎょうびんというのはじょうこうみょうじゅうしょくをやっておった念仏ねんぶつしゅうの坊主でありまするが、そして、この訴訟の背後にはりょうかんがいたし、りょうかんだけではない、念仏ねんぶつしゅうちょうろうねんどうというようなちょうろうがついておった。
 そして、このじょうの中にこういうおことがあるんですよきょうしつちゅうあつむ」と。
 「きょうぼうやからだいしょうにんさまが家の中に集めている」とこういうことった。
 さらにひょうじょうたくわう」兵隊へいたいつえ、これは実は武器ですね)「武器をたくわえている」と。
 「よからぬやからを部屋の中に集め武器をたくわえている」とこういうようなことじょうの中にあった。
 何と、だいしょうにんさまきょうあくな者どもを室内に集めて武器をたくわえているというきょこくをした。
 まさに、ほんくわだてているこくはんとしてうったえ出たわけであります。
 ここに、検断けんだん権者けんじゃ、すなわち、こくはんたいし、そして審理するというこのような権限けんげんを持った検断けんだん権者けんじゃであるへいのさもんが乗りしてきて、だいしょうにんさまひょうじょうしょしょうかんしてじんもんしたんです。
 しかし、だいしょうにんさまの堂々たるせいろんに押されて、彼はついに押し黙っちゃったんですね。
 この押し黙ったいきどおりのためたけくるうようになった。
 そして、その2日後の9月12日にへいのさもんだいしょうにんさま庵室あんしつを襲った。
 もとよりりょうかん結託けったくしてだいしょうにんを死罪にせんとするのたいであるから、あたかもほんにんを召し捕るかのごとくの演出がなされたわけであります。
 へいのさもんみずから数百人の武装兵士を引き連れてまなこいからしこえあらおす」とこうだいしょうにんおおせになっておられまするが、常識をはずれたおおぎょうものであった。
 さらに、へいのさもんたいしただいしょうにんほんの重罪人のごとくに鎌倉かまくらちゅうを引きずり回したんですね。
 『しんこくおうしょ』にはこうおおせになっておられる。

 「にっちゅう鎌倉かまくらこうわたことちょうてきごとし」

 へいのさもんは、このようなはずかしめをだいしょうにんさまに与えたてまつった。
 そして、この日の深夜、おそれ多くもだいしょうにんさまたつくちくびの座に引きえたのであります。
 だが、大なる光り物が出現して、りはその場に倒れ伏し、兵士達もことごとく砂浜すなはまにひれ伏してしまった。
 まさに、本仏ほんぶつとくの前にこっけんりょくがひれ伏したというわけであります。
 『しゅっせのほんがいじょうじゅしょ』にはこうおおせになっておられる。

 「たとだいじんのつけるひとなりとも、日蓮にちれんをばぼんしゃくにちがつてんとうてんしょうだいじん八幡はちまんしゅたまうゆえにばっしがたかるべし」

 このだいじんのつけるひととはだいろくてんおうその身にったへいのさもん並びにりょうかん等の悪人であります。
 「これらの悪人ですらしょてんが厳然としゅたてまつだいしょうにんさまを害することはできない」ということですね。
 いや、これらの大悪人は結果としてかえってだいしょうにんさまどうを助けまいらせたのであります。
 この時だいしょうにんさまおん元初がんじょじゅ用身ゆうじんまっぽうしゅほんぶつと顕われたまうた。
 ゆえに『しゅほんぶつじょうどうしょ』にはひとをよくなすものは、かたうどよりも強敵ごうてきない日蓮にちれんほとけにならんだいいち方人かたうどは」としてりょうかんへいのさもんの名をげ給うておられるのであります。


平成25年 10月25日 10月度 総幹部会 浅井先生指導