で、今この『せんしょう』のだいことだいしょうにんさまおおせあそばすに、まず最初の方に今の「まっぽうの初めにはしゃぶっぽう滅尽めつじんするんだ。そして、戦乱せんらんの世になるんだ」ということしゃぶつの経文をもってこれをりっしょうしておられる。
 すなわち大集だいしっきょうとうじょうけんびゃくほう隠没おんもつとある。
 とうじょうけんというのは戦乱せんらんが激しくなってくるその時代になる。
 びゃくほう隠没おんもつとは、すなわちしゃくそんぶっぽう隠没おんもつ滅尽めつじんしてしまう。きょうかんそのものは残っておっても、それを信じて唱えてもどくがない。こういう時代が来る。
 これがとうじょうけんびゃくほう隠没おんもつということであります。
 そして、文底もんていじん大法だいほう広宣こうせんすることについては、きょう薬王品やくおうぼんひゃくさいちゅう広宣こうせんひゃくさいなか広宣こうせんすべし)」ということげんしておられるんですね。
 しゃくそんみずからのげんでありますからこれで十分なのでありまするが、だいしょうにんさまはさらに私達一切いっさいしゅじょうの信を深くせしむるために、ぞうぼう時代においてだいしゃといわれたてんだいみょうらくでんぎょう等が、ではこのだいしょうにんさましゅつげんについてどのようなことっているかということでそのもんげておられます。それが只今ただいま拝読はいどくの所ですね。

 「てんだいだいいわく『ひゃくさいとおみょうどううるおわん』と」

 このひゃくさいというのはまっぽうじんらいざい間での長い間の初めのひゃくねん、それがひゃくさいであります。
 とおみょうどううるおわん」とのみょうどうということ三大さんだいほうであると日寛にっかんしょうにんおおせになっておられる。
 びゃくほう隠没おんもつであるひゃくさいの時に、しゅぶっぽうのこの三大さんだいほうが新たにしゅつげんして、遠く一切いっさいしゅじょううるおわしていく。

 「みょうらくだいいわく『まっぽうはじみょうきにあらず』と」

 まっぽうは、ぶっぽう滅尽めつじんの時である。しかし、みょうがなくなるわけではない。
 みょうというのは「王仏おうぶつみょうごう」のみょうという字。それからというのはやくである。
 「みょうきにあらず」というのは、熟脱のぶっぽう顕益けんやくなんですね。
 過去に長い間りゃっこうしゅぎょうをしてきて、そして、過去に受けたしゅきょう本門ほんもん寿じゅりょうほん説法せっぽうを受けて、みんなそれを理解して認識にんしきでもってかったから物凄ものすごく自分自身がかくを持ってよろこんだ。
 ところが、まっぽうというのは知らない間に本尊ほんぞんさまどくをこのれん渇仰かつごう信心しんじんしょうによって自然と自分では認識にんしきできないけれども、いつの間にか自分の命が感じて本尊ほんぞんさまと一体となっていく。だいしょうにんさまと一体にならせていただく。
 そのことによって、いつの間にかじょうぶつさせていただける。
 ですから、これが「ないしょうじょうぶつ」といってりんじゅうの時にそのじょうぶつの相を現ずる。
 自分は、何も分からないじゃではあるけれども、命そのものが自然といっしょうじょうぶつを遂げていく。これをみょうというんです。
 みょうは自分にも分からない。人にもさばかりもからない。
 だけど、ないしょうにおいてその人の命がじょうぶつしていくということなんですね。
 これをだいしょうにんさまが「心を宿としてほとけさまはらまれるんだ」とおおせになったそのことであります。
 そのように、まっぽうの初めにはしゅやくやくがあるんだということみょうらくだいまっぽうはじみょうきにあらず」った。
 ほんでんぎょうだいしょうぞうややおわって、まっぽうはなはちかきにり」とこうった。
 「しょうぞうせんねんがもうすでに過ぎ終わって、本仏ほんぶつしゅつげんまっぽうはなはだ近い」ということでんぎょうだいったわけであります。
 これらのてんだいみょうらくでんぎょう等はどのような心を持ってこのことったのかといいますと、次に

てんだいみょうらくでんぎょうとうすすんではざいほっ御時おんときにもれさせたまいぬ。
 退しりぞいては、めつまっぽうときにもうまれさせたまわずちゅうげんなることなげかせたまいて、まっぽうはじめひさせたま御筆おんふでなり」

てんだいみょうらくでんぎょう等は進んではしゃくそんきょうを説いた時にも居合わせることができなかった。
 そして、退しりぞいてはめつまっぽうだいしょうにんしゅつげんの時にも自分は生まれることができない。
 ちゅうかんに生まれたことを嘆いて『まっぽうの初めはもう間もなく、あと数百年でおん元初がんじょじゅ用身ゆうじんまっぽうしゅ本仏ほんぶつしゅつげんになるではないか』とそのことれん渇仰かつごうするあまり一筆いっぴつ残しておいたそのふでなんだ」

とこうおおせになっておられる。


平成25年 6月16日 浅井先生指導