このもんを拝して、私はいつも「何があっても大丈夫」ということを繰り返しっております。
 だいしょうにんさまはさらにおおせ給う。

 「ひとこころつよければ、かみまもかならつよしとこそそうらへ。
 ないためしにはくべからず。
 にちれんをば、本国ほんこく上一人かみいちにんより下万民しもばんみんいたるまで一人いちにんもなくあやまたんとせしかども、いままでかうてそうろうこと一人いちにんなれどもこころつよゆえなるべしとおぼすべし」

 こういうことですね。

 「人の心が固ければ、諸天しょてん善神ぜんじんしゅも必ず固いのである。その実例をよそに求める必要ひつようはない。
 だいしょうにんさまに対して日本国中の者達が一人残らず命を奪おうとしたけれども、今までこのように安穏であることは、たとえいちにんであっても心が強いゆえである」

とこうおおくだされているんです。
 このおおせを拝すれば、今こう最終さいしゅう段階だんかい奉公ほうこうする顕正会員こそ、全員が心固き絶対信ぜったいしんに立たなければいけない。
 ある時はしんじ、ある時は疑うというそのような薄っぺらな信心しんじん、弱弱しい信心しんじん、ずるい信心しんじんでは成仏じょうぶつは叶わない。
 いかなる難に遭おうとも、いや、地球が壊れるようなことがあろうとも、だいしょうにんさまに命を帰したてまつ絶対信ぜったいしんに立たなければいけない。
 ゆえに、佐渡さどで著わされた『浄房じょうぼうしょ』には

こころとはなれどもこころとすべからず」

とこうおおせになっておられる。
 また、身延山中での御講義を記録した『こう聞書ききがき』にはこうおおせですね。

 「こころなりともしんこころしゅったいせば、たちまちに信心しんじんじゅうすべし。
 所詮しょせんしんこころをばすべからず。信心しんじんこころしょうとすべし」

 「こころとはなれどもこころとすべからず」と同じことですね。
 いいですか、ぼんの心は様々に揺れ動く。
 ある時は目先の欲のために、ある時はいかりのために、ある時は愚かのために心が揺れ動くんですね。
 だが、その迷う心、弱い心にきずられてはいけない。
 もし迷う心が起きた時、竜の口におけるあの荘厳な金剛こんごう不壊ふえの大現証を胸におもい浮かべ、命を仏様に帰したてまつたてまつるこの絶対信ぜったいしんに立ちたい。
 この時初めて永遠のぶっいただけるのであります。


愛媛会館御入仏式  浅井先生指導