これがまた大事な事で、この御文について日寛上人がことに「末代幼稚の頸に懸けさしめ給う」とはどういう意味かという事について次のごとく仰せになっておられる。
「我等此の本尊を信受して南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即一念三千の本尊、蓮祖聖人なり。
幼稚の頸に懸けさしめ給うに、当しく此処に在り。
故に但仏力・法力の故に当に信力・行力に励むべし。
一生虚しく過ごして万劫悔ゆる事勿れ」
これでもって『観心本尊抄文段』の末文となっているんです。
この御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉れば、凡夫の我が身がそのまま一念三千の御本尊となり、日蓮大聖人となるのである。
何とも口にする事も畏れ多いでしょう。私達凡夫がこんな畏れ多い事は言えない。
いいですか、御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉れば凡夫の我が身がそのまま一念三千の御本尊となり、日蓮大聖人と顕われる。
こういう事を口にするのも畏れ多いけれども、日寛上人がこう仰せあそばされているんですね。
この日寛上人の極理を通して御書を拝見すれば本当にこの事がよーく分かる。
ですから、日興上人が御遺誡二十六箇条の中に
「御書を心肝に染め、極理を師伝すべし」
とおっしゃっているのはそれなんですね。
学会でもって御書全集を基に御書を拝読したって極理が分かるものではありません。
堀日亨上人が「やたらと智恵なき者が御書を拝読しても泳ぎを知らない者が大海を泳ぐのと同じである」という事を仰せになっておられる。
どこが有難いのかを知らずにかえって迷う。身延派も御書を拝読しても全部迷っているんでしょう。
それと同じように、極理を師伝しなければいけない。
大聖人様の御書の深意を知るには極理を師伝してもらってつかんで初めて分かる。その事を教えて下さったのが日寛上人であります。
だから、私はいつも日寛上人の御指南を基に申し上げているんですね。
しかも日寛上人は「言葉だけで言ったのではみんなが信じないから」という事で自分自身の臨終の姿をもって御法門の正しさをお示し下された。
「自分は臨終の時にこのように振る舞う。それができなかったら自分の法門を捨てよ」という事をおっしゃっておられる。
だから私は日寛上人の御指南を絶対と仰いでいるわけであります。
多摩会館御入仏式 浅井先生指導