今日の一人一人の登壇はまことに立派でしたね。強く胸を打たれました。
そして、この多摩会館がついに立派に落成いたしました。東京における第二の会館であります。
顧みれば、東京こそ顕正会の発足の地ですね。
当時顕正会は「妙信講」と称しておりまして、その発足は昭和32年8月3日でありました。
この時馳せ参じた同志はわずか380名。
しかし、少数とはいえ、広宣流布をただ一筋に見つめて健気な雄々しい出発でありました。
当時「本部」と称していたのは東京都文京区音羽町。ここには、講談社のビルがありまするが、その真ん前にある初代講頭先生の自宅を「本部」と称して皆が集まっておった所であります。ここから弘通が始まった。
しかし、始めは遅々として進まず、弘通も本当に難儀でした。一つ一つ進めようとしても本当に力がない。
ですから、始めの三千世帯を達成したのが昭和32年の発足より6年かかって昭和38年であります。満6年を経て初めて三千世帯に達した。
そして、その三千世帯達成の昭和38年頃から池田大作が宗門統制に乗り出したんですね。
要するに、彼は強大なる権力を持っていたため宗門僧俗共に頭を下げていた。池田大作が正系門家を抑えてしまったんですね。
それから次第に国立戒壇が否定されるようになって、ついには正本堂の大誑惑となったわけであります。
これを見て、顕正会は御遺命守護に身を捨てて立ち上がった。
そして、昭和45年に宗務当局の三役と学会代表の三人と顕正会の代表で確認書を交わしまして、その時に学会が「正本堂は『三大秘法抄』『一期弘法抄』に仰せの御遺命の戒壇ではない」という意味をしたためて、ここで(宗務院立ち合いでありますから)宗門・学会共にその誤りを認めて確認書ができた。
これで、御遺命の歪曲は正されたという事になったわけであります。
この時私は「彼らがこの事を誠実に実行するであろうか。言葉だけなのか」「もしそれが不誠実で大聖人様を欺いたならば、その時こそ顕正会の命運を賭して立つ」という事の準備のために、音羽の自宅の本部から本格的な本部を東京都板橋区常盤台に建てたんです。これが、初めての本格的な本部会館でありました。
で私はその本部会館で『もし学会が裏切ったならばここを根城として』という思いでありました。
この本格的な本部会館を建てたのが昭和48年の12月でありました。
そして、その翌年に私が懸念しておったように学会は本性を現わしてきたんですね。うわべだけの確認書であった。
そして、顕正会に対して理不尽なる解散処分が下ったという事であります。
「顕正会を抹殺しなければ正本堂のたばかりを押し通す事ができない。顕正会が邪魔になる。死んでもらおう」というわけで解散処分に付したわけであります。
その宣告書を私は新しくできた本部会館の会長室において広げて読みました。
そして、その意味は「宗門が禁止した国立戒壇を主張するゆえに」「猊下が定められた正本堂の意義を否定するゆえに」顕正会を解散処分に付すという主旨の事がしたためられておりました。
しかし、その解散処分を受けても顕正会は大聖人様の御守護を頂き、微動だにしなかったんですね。誰一人臆する者はいなかった。
そして、いよいよそれから真剣なる死身弘法が力強く始まってきたのですね。
さらに、諌暁がいよいよ強くなってきた。
そしてついに平成10年に正本堂が崩壊したのであります。
その2年後の平成12年11月、いよいよ広宣流布の本陣として今の本部会館が建設された。
今度はいよいよ「広宣流布を見つめて本格的な本陣を作ろう」という事で埼玉県さいたま市大宮区に本部会館を建てました。
もう広宣流布まで本部はここを動かない。ここが本陣であります。
従って、東京都板橋区常盤台の旧本部会館はその時に「東京会館」と名を改めまして、首都弘通の中心法城となりました。
そして、本日東京都の第二の会館たる多摩会館がここに建立されたわけであります。
多摩会館御入仏式 浅井先生指導