だい聖人しょうにんにゅうめつより51年目の正慶2年2月7日、日興にっこう上人しょうにん御年おんとし88歳でせんあそばされた。
 この日興にっこう上人しょうにんせんは15歳でおとなって以来けいとしてつかえ、おしたい申し上げてきた日目にちもく上人しょうにんにとってどれほどの深いお悲しみであられたか。
 そして、この年の5月にあの謗法の限りを続けた鎌倉かまくらばくがついにめつぼうしたんです。
 かくて、承久の乱以来112年もの間すいの極にあった朝廷が久々に王政おうせいふっした。
 これが世にいうけんちゅうこうであります。
 時の天子は、あのお下し文を日目にちもく上人しょうにんたくされた宇多うだ天皇てんのうの第二皇子のだい天皇てんのうであった。
 ここに日目にちもく上人しょうにん「何としてもだい聖人しょうにんこころを天子の耳に入れしめん」けっ天奏てんそうを決意されたのです。
 まさに、日目にちもく上人しょうにんのこの天奏てんそうは51年前の宇多うだ天皇てんのうのお下し文を確実かくじつにせんとのお心であられたのであります。
 この時、日目にちもく上人しょうにんはすでに74歳の老齢ろうれいでお体もお弱りになっておられたんですね。
 くわえて、それまでの度重なるこっ諌暁かんぎょうの長旅と大法づう東奔西走とうほんせいそうよってくるぶしも少し痛めておられた。
 もし京都までの長途の天奏てんそうけっこうすれば、ふたたび大石寺には帰れないであろうことは誰よりも誰よりも日目にちもく上人しょうにん御自身がぞんであられた。
 だが、日目にちもく上人しょうにんこころ

「これを成さねばだい聖人しょうにんさまに申し訳ない。
 もし途上命尽きるとも、その時はとも申状もうしじょう奏上そうじょうせしめん」

との御決意であられたと私はつつしんで拝しております。
 かくて、正慶2年11月の初め(旧暦ですから今の12月ですが、当時は寒冷期で寒かった)日目にちもく上人しょうにん日尊にちぞん日郷にちごうの二人をともとして大石寺を後にされた。
 この日尊にちぞん日郷にちごうとは門下の高弟で二人ともすでに老僧であります。
 これは何かというと「万一日目にちもく上人しょうにんが途中でもって命尽きた時は代わって天子に奏上そうじょうする者が若い者であってはいけない」ということで老僧の日尊にちぞん日郷にちごうの二人をお連れになったんですね。
 日尊にちぞん日郷にちごうの二人の高弟を供として、寒風かんぷうの中大石寺を後にせられた。
 いっこうは10日ほどあゆみをつづけ、かわ静岡県しずおかけん)・わりあいけん)・と通過されたが、日目にちもく上人しょうにんろうは日ごろに深まり、歩みは次第に遅くなられた。
 そして、琵琶湖びわこの近くのぶきやまふもとかった時、雪は腰まで積もっていた。
 くわえて、ぶきおろし寒風かんぷう日目にちもく上人しょうにん御肌おんはだした。
 ここにおいて、日目にちもく上人しょうにんのお体はこごえ切り、ついにおみ足一歩も進みたまわず。
 このお姿を拝見して、日尊にちぞん日郷にちごうの二人は日目にちもく上人しょうにんを引いて、近くの垂井の宿しゅくまであんない申し上げた。
 日目にちもく上人しょうにんはこの宿やどでしばし休み給うた。
 だが、ついにふたたび立つ事あたわず、側にはべる二人のに臨終の近きを告げられると共に「京都へ上り代奏だいそうを遂げよ」と命じ給うた。
 11月15日、日目にちもく上人しょうにん日尊にちぞん日郷にちごうの二人が守護したてまつる中に最後の勤行ごんぎょうをあそばされた。
 この時のよう日尊にちぞんが伝えられたままに大石寺十八代の日精にっせい上人しょうにんが『ちゅうしょう』にこれを伝えて記録しておられるんです。そのもんいわく。

 「りんじゅうおんつとめましまして、りょうげんねむるがごとく、こうしんするがごとくにいきたまう」

 この時のしょもうしじょうの最後の結文けちもんにはこうしたためられていたんです。

 「にちもくせんぼうげんがために、じつてんそうたっせしむ」

 このもんの中に、日目にちもく上人しょうにん大忠誠だいちゅうせい凝集ぎょうしゅうされております。
 日尊にちぞん日郷にちごうの二人は日目にちもく上人しょうにんゆいごんのまま御遺ごいこつを胸に抱いて、申状もうしじょう代奏だいそうたてまつった。
 まさに、日目にちもく上人しょうにんおんみずかしんみょうをなげうたれてだい聖人しょうにんさま大願だいがんてんの耳にれしめ給うたのであります。


令和4年 11月15日 日目上人御報恩勤行会 浅井先生指導