さて、だい聖人しょうにんさま鎌倉かまくらばくに対する御諌暁かんぎょうは『せんしょう』にみっつのだいおおせられて、三度に渡ってなされたのであります。
 その第一度は『立正りっしょう安国論あんこくろん』をもって時のこくしゅ北条時頼を諌暁かんぎょうあそばされた事。
 この『立正りっしょう安国論あんこくろん』にはいまだ兆しもまったくない時に界叛逆かいほんぎゃく国侵逼こくしんぴつを次のごとく厳然と御予言されております。

 「せんなんあきらかなり、こうさいなんうたがわん。
 のこところなんあくほうとがってならおこきそきたらば、ときいかんがんや。
 ていおうこっもといとしててんおさめ、にんしんでんえんりょうしてじょうたもつ。
 しかるにほうぞくきたりてくにしんぴつし、かいほんぎゃくしてりゃくりょうせば、あにおどろかざらんや、あにさわがざらんや。
 くにうしないえめっせば、いずれのところにかのがれん」

 このもんをもって北条時頼を諌暁かんぎょうされました。
 第二度は、竜の口の大法難の折にだい聖人しょうにんりに来たばく内の最高実力者平左衛門に対して強々つよづよとこうおおせになった。

 「日蓮にちれん本国ほんごく棟梁とうりょうなり、うしなうは本国ほんごくはしらたをすなり。
 只今ただいま界叛逆かいほんぎゃくなんとてどしう同士討ちして、国侵逼こくしんぴつなんとてくに人々ひとびとこくころさるるのみならずおおりにせらるべし」

 ここでふたた界叛逆かいほんぎゃく国侵逼こくしんぴつの二難を『立正りっしょう安国論あんこくろん』に続き重ねて断言だんげんし給うたんです。
 第三度は、佐渡流罪から帰り給うた直後の文永11年4月、鎌倉かまくらばく招請しょうせいによって殿中でんちゅうおもむかれた。
 殿中でんちゅうにおいて、北条時宗の指示しじを受けたごとく平左衛門がそれまでの丈高たけだかたいをすっかりあらためてだい聖人しょうにんさまにおうかがいを立てたんですね。
 何とったか「もうはいつ頃寄せてまいりましょうか」と。
 このおうかがいに対してだい聖人しょうにんさまはこうおおせられた。

 「経文きょうもんにはいつとはそうらわねども、てん御気みけしきいかすくなからずきゅうへてそうろう、よも今年ことしごしそうらわじ」

 「経文にはいつということは書いてはいない。
 しかし、諸天の様子はいかり少なからずたいは急に見えてせまっている。
 よって、今年を過ぎることはないであろう」

 このおおせが4月ですから「今年」というのはあと8ヵ月しかない。その8か月の間に必ずもうが攻めてくる。こう断言だんげんあそばした。これが第三度目の諌暁かんぎょうであります。
 この断言だんげん寸分すんぶんたがことなく、その年の10月(ちょうど半年後ですね)だいもうは2万5千の大軍たいぐんをもって日本にっぽんに押し寄せてきた。
 さらに、その7年後の弘安4年5月、だいもうふたたび襲来した。
 この時とは前回とは比較にならぬ14万2千の大軍勢だいぐんぜいで押し寄せてきたんです。
 まさに、日本にっぽんの亡国は必至とおもわれた。国中こくちゅうが恐怖におののいたんです。
 その中にだい聖人しょうにんさまはこの大罰を用いて人々をかいせしめ、げんごくの大苦を今生のうちに消せしめ給うた。
 同時に、未来に仏になるべき種を植えてくださった。これが、ざいの逆縁広宣こうせん流布るふですね。


令和4年 11月15日 日目上人御報恩勤行会 浅井先生指導