そして、この野外の大法論の4か月後に鎌倉からはるばると日妙殿が幼子の手を引いて佐渡の大聖人様の下に参詣したんですね。。
鎌倉から佐渡までは一千余里。その間には険しき山があり、荒れ狂う海がある。
しかも、当時は山賊や海賊も充満しておったんです。
まして、この時は罰で自界叛逆が起きて京都・鎌倉に内戦があって、日本の治安は極度に乱れていた。
その中での幼子を連れての女性の一人旅、それがどれほど危険で困難なものか。
当時においては日本の人々は領内から出て旅をする事はないんですよ。
もし男が旅をする事はあったとしても、女性が一人で旅をする事は堪えてこの時代にはなかったんです。
しかも幼子を連れて鎌倉から佐渡に参詣に訪れるなんて到底想像もできない。どれほど危険で困難か想像を絶します。
昔伝教大師が仏法を求めて三千里の海を渡って中国に入った。
玄奘三蔵は十万里を旅してインドに行って経典を求めた。
しかし、これらはみんな男子の所行であり、賢人の為した行為であります。
未だかつて女性が仏法を求めて命かけての旅をしたという前例は日本の歴史にない。中国の歴史にないんです。
日妙殿は難しい教義は分からなかったに違いない。
しかし、大聖人様を絶対と信じまいらせておったんです。この人も命で仏様を感じていたんです。
鎌倉では、大聖人様が佐渡に流されて周りの者がなんて言っておったか。
大聖人様の悪口を言って「佐渡に流されて生き延びた者は一人もいない。帰ってきた者は一人もいない」と日妙殿の信心をけがして居った。
そのような悪口罵詈の中で、日妙殿は何を言われようとも絶対信に立ったんですね。
恋慕渇仰の絶対信に立ち、そして「一身に仏を見奉らんと欲して、自ら身命も惜しまず」との求道心を持って佐渡に渡ったんです。
日妙殿のお心を拝せば「もし佐渡に渡って大聖人様の御顔を拝見したら死んでもいい」と思っておったんでしょうね。
帰りの事など考えていない、命かけて大聖人様を信じまいらせた。
その大聖人様が虚しくなれば日妙殿の信心は全部虚しくなってしまう。
「そんな事あるべくがない」との求道心でもって大聖人様の御顔を拝見したら帰りはどうなっても構わない。
大聖人絶対のお姿を見ればそこで成仏が決まるんです。
この決定信をもって日妙殿は佐渡に渡った。
ゆえに大聖人様はこの信心を激賞あそばされた。
『日妙聖人御書』にはこう仰せになっておられる。
「未だ聞かず、女人の仏法を求めて千里の道を分けし事を。
乃至、当に知るべし、須弥山を頂きて大海を渡る人ありとも此の女人をば見るべからず。砂を蒸して飯と為す人は見るとも此の女人をば見るべからず。
乃至、日本第一の法華経の行者の女人なり」
とこう仰せになった。
さらに、数年後の日妙殿のお手紙『乙御前御消息』にはこう仰せになっておられる。
「法華経は女人の御ためには暗きにともしび、海に船、おそろしき所には守りとなる」
この有名な御文は日妙殿に賜わったお言葉なんですね。
真っ暗でどこに行ったらいいのかもわからない。足も踏み出せない。そのような時に、御本尊様は灯火になって下さる。
海にぶつかってしまったら渡れない。海にぶつかった時には船となって下さる。
身の震えるような恐ろしき所には自然と守りになって下さる。こう仰せになっておられる。
いいですか、御本尊を強く信じまいらせる者には断じて行き詰まりという事がないんです。
だから私はいつも「何があっても大丈夫」という事を言っているわけであります。
御本尊の功徳は無量無辺ですよ。祈りとして叶わざるはない。
ただし、ある時は信じ、ある時は疑うという信心が弱くてフラフラしておったんではだめなんですね。
大聖人様が命をかけて竜の口の刑場にお座りになって「日蓮が魂を墨に染め流して書きて候ぞ、信じさせ給へ」とおっしゃって命をかけて顕わして下さった御本尊、フラフラしている信心では申し訳ないでしょう。
大聖人様が命をかけて顕わして下さった御本尊であるならば、自分達もまた命をかけて信じまいらせよう。
自分のわずかのちっぽけな人生などどうなってもいいではないかとの絶対信に立つ。
たとえ地球が壊れるような事があろうとも大聖人様を信じ切るこの絶対信に立った時、始めて凡夫が仏にならせて頂けるのであります。
佐渡会館御入仏式 浅井先生指導