では、遠元初おんがんじょ受用身じゅゆうじんはいかなる仏様ほとけさまであられるか。
 これを一言で申せばこういうことですね。

 「さん十方じゅっぽうしょぶつを生ぜしめた根源のほんぶつ、最初大元の仏様ほとけさま」これが遠元初おんがんじょ受用身じゅゆうじんであります。

 この大宇宙には、インドに出現したしゃぶつのような三十さんじゅうそうで身をかざった熟脱じゅくだつの仏は星の数ほど存在しているんですね。星のごとくに存在している熟脱じゅくだつの仏はことごとく三十さんじゅうそうで身をかざっているんです。
 三十さんじゅうそうというのはあの奈良なら大仏だいぶつを見れば分かりますように頭のてっぺんの肉が盛り上がっている「頂上ちょうじょう肉髻相にくけいそう」やけんに白いイボのような毛が渦を巻いている智恵を表わす「けん白毫相びゃくごうそう」足の裏には「千輻輪せんぷくりん」といって特別なようがついているなどなど当時のインドの人々が心から尊敬するような立派な相をすべ総称そうしょうして「三十さんじゅうそう」というんですが、このような三十さんじゅうそうで身をかざるということは過去にしゅを受けた衆生しゅじょうに対してそのしゅおもい起こさせて、それを育てる。それがすなわち「熟脱じゅくだつ」ということです。
 ですから、熟脱じゅくだつの仏は全部三十さんじゅうそうを備えているわけであります。
 これら三十さんじゅうそうで身をかざっている熟脱じゅくだつしょぶつはいずれも遠元初おんがんじょ受用身じゅゆうじん垂迹すいしゃくなんですね。
 ですから、遠元初おんがんじょ受用身じゅゆうじんは天の一仏であり、さん十方じゅっぽうしょぶつは池に移った月の影のようなものであります。
 たとえば、大木たいぼくには無数の枝や葉が生い茂っているが、その枝や葉はことごとく1つの根から生じ、1つの根に収まる。
 その根に当たる根源のほんぶつ遠元初おんがんじょ受用身じゅゆうじんと申し上げる。
 今末法まっぽうにおいては過去に仏になる種を植えられた衆生しゅじょうは一人もいないんですね。これが「ほん未有みうぜん」というんです。誰一人過去にしゅを受けた者はいない。
 ゆえに、過去のしゅを熟さしめ脱せしめる熟脱じゅくだつの仏であるしゃぶつでは人々を救うことはできない。
 この荒んだ貪欲とんよくしん愚癡ぐちの三毒充満の末法まっぽう、戦乱の絶えない末法まっぽうを「闘諍とうじょうけんの時代」という。 この末法まっぽうには、三十さんじゅうそうで身をかざらぬ名字凡身のほんぶつ、すなわち、遠元初おんがんじょ受用身じゅゆうじんが御出現になってしゅの大法たる三大さんだいほうをもって人を、国を、世界を根底からお救いくださる。
 この遠元初おんがんじょ受用身じゅゆうじんこそ実に日蓮にちれんだい聖人しょうにんであられるのであります。
 いいですか、一切いっさい衆生しゅじょうは誰一人仏になる道を知らない。
 その中において、日蓮にちれんだい聖人しょうにんただ一人いちにん受用身じゅゆうじんそく一念いちねん三千さんぜんという全宇宙を包含ほうがんする生命のごく証得しょうとくされてほんぶつほんぶつになり給うたということは、やがて全人類が仏にならせていただけるということなのであります。
 まことに、身命しんみょうにも及ぶざいざい大難だいなんをも耐え忍ばれて、全人類成仏じょうぶつの道を踏み開けてくださったそのだいだい大恩徳だいおんとくを拝したてまつれば、ただ有難さが胸にげてまいります。
 よって報恩ほうおんのために本日つつしんでごんぎょう奉修ほうしゅうさせていただいた次第であります。


令和3年 9月12日 竜の口法難御報恩勤行会 浅井先生指導