しかし、池田大作は憲法けんぽうに合わせて今遺命ゆいめい戒壇かいだんげたわけですが、本当ほんとうはそんなことをする必要はないんです。
 なぜかといえば、遺命ゆいめい戒壇かいだんというのは現行憲法けんぽう(すなわち、今の日本国憲法けんぽう)の下で建立こんりゅうされるものではないんですよ。
 すなわち、広宣こうせん流布るふあかつき仏法ぶっぽうに基づいて新たに制定された憲法けんぽうの下で建立こんりゅうされるものであるから「憲法けんぽうはん」なんていうことはありないじゃないですか。
 そうでしょう、広宣こうせん流布るふになったら一国のそうをもって仏法ぶっぽうに基づいたこっを作るわけですからその基本法である憲法けんぽう仏法ぶっぽうに基づくのは当たり前です。
 その後においていよいよ日蓮にちれんだい聖人しょうにん遺命ゆいめいである国立こくりつ戒壇かいだん建立こんりゅうされる。だから「憲法けんぽうはん」などという批判は当たらない。
 しかるに、池田大作はその当たらない批判をどういうわけか恐れちゃったんです。これが、憲法けんぽうを主とする薄っぺらなかんがえ方なんです。
 ですから、かつて池田大作が戸田城聖前会長の口真似をして「国立こくりつ戒壇かいだん」とっておったことは口真似なんです。
 本当ほんとうしょを拝読したことがなく信心しんじんが薄いから「国立こくりつ戒壇かいだん」ということ本当ほんとうの意義が分からなかったんですね。
 ぶつならば何よりも仏様ほとけさま金言きんげんを基としなければいけない。
 それでもしせいが「けしからん」とうならば命かけてつのったらどうか。
 だい聖人しょうにんさまは『せんしょう』に

「むしろしんみょううしなうともきょうかくさざれ」

ということおおくだされておられる。
 ですから、もし国立こくりつ戒壇かいだんの本義をべてせい増上慢ぞうじょうまんになって「そんなことは認められない」などとったならばつのっていったらいいんです。
 その時に「命を取る」とわれたら取られたらいい。これがだい聖人しょうにんさまけつではないか。
 だい聖人しょうにんさまならば何よりも金言きんげんを基としなければいけないのです。
 『三大さんだい法抄ほうしょう』を拝すれば、遺命ゆいめい戒壇かいだんというのはいかなる時、いかなる手続きをもって建立こんりゅうすべきかは太陽のごとく明らかにお説きくだされておられます。あらためてここに拝します。
 まず、戒壇かいだん建立こんりゅうの時についてはこうおおせでしょう。

 「王法仏法ぶっぽうみょう仏法ぶっぽう王法にがっして、王臣おうしんいちどう本門ほんもん三大さんだいみつほうたもちて、徳王とくおう覚徳かくとく比丘びく乃往むかし末法まっぽう濁悪じょくあくらいうつさんとき

おおせになっておられる。
 「王法仏法ぶっぽうみょう仏法ぶっぽう王法にがっして」とはどういうことか。
 「こっが宗教の正邪に目覚めて『日蓮にちれんだい聖人しょうにん仏法ぶっぽうこそこっ安泰の唯一の大法であり、一切衆生が成仏じょうぶつを遂げるべき唯一の正法である』ということ認識にんしきし、尊崇そんそうしてしゅする」時を王仏おうぶつ冥合みょうごうというんです。
 では、その具体的な姿はどのような姿になるのかとえば次の文にこうおおせでしょう。
 「王臣おうしんいちどう本門ほんもん三大さんだいみつほうたもちて、徳王とくおう覚徳かくとく比丘びく乃往むかし末法まっぽう濁悪じょくあくらいうつさんときとある。
 これは天皇てんのうへいも各大臣も一同に本門ほんもん戒壇かいだんだい本尊ほんぞんしんたてまつって、あたかも命を捨てて仏法ぶっぽうしゅした徳王とくおう、命を捨てて正法を説いた覚徳かくとく比丘びくのように濁り切った末法まっぽう濁悪じょくあくの未来に純粋な仏法ぶっぽうしゅ大道念だいどうねんに立つその大信心しんじんが日本国にみなぎった時に初めて遺命ゆいめい国立こくりつ戒壇かいだん建立こんりゅうせよ」とのだい聖人しょうにんさまの御命令ですよ。
 ですから、王仏おうぶつ冥合みょうごうの時に国主たる天皇てんのうも、国政をつかさどる大臣もこっの命運を賭しても命を捨てて戒壇かいだんだい本尊ほんぞんさましんたてまつる。これが徳王とくおう覚徳かくとく比丘びく乃往むかしであり「この時に国立こくりつ戒壇かいだん建立こんりゅうせよ」とおっしゃる。
 このもんを拝せば、こっ関係かんけいない遺命ゆいめい戒壇かいだんなどありないでしょう。これが、だい聖人しょうにんさまおおせであります。
 だい聖人しょうにんさま末法まっぽう濁悪じょくあくの未来日本国にこのようなこっ状況が必ず現出する」おおせになっておられる。
 どれほど濁っておった日本にっぽんであっても、広宣こうせん流布るふの時には必ずそういう日本国になる。
 徳王とくおう覚徳かくとく比丘びくのような仏法ぶっぽうしゅ大精神だいせいしんが国中にみなぎる。
 このこっ状況が必ず現出することをここに断言しておられるんです。
 次に、戒壇かいだん建立こんりゅうの手続きについておおくだされている。

 「勅宣ちょくせんならびに教書ぎょうしょもうくだして」

さだめられている。
 この勅宣ちょくせんとは申すまでもなく天皇てんのう詔勅しょうちょくですよ。別の解釈ができるものではない。勅宣ちょくせんといったら天皇てんのう詔勅しょうちょくであります。
 教書ぎょうしょというのは当時は幕府の令状れいじょうでありまするが、今日こんにちにおいてはかく決定けってい、国会のけつですね。
 これが、こくみんそうですから今日こんにちにおいてはかく決定けっていや国会のけつ教書ぎょうしょであります。
 勅宣ちょくせん天皇てんのう詔勅しょうちょく教書ぎょうしょというのはすなわち国会のけつ等がこれに当たる。
 まさしく勅宣ちょくせんならびに教書ぎょうしょもうくだして」というおことは「仏法ぶっぽうしゅたてまつる」とのこっ意思いし公式こうしき表明ひょうめい、これを建立こんりゅうの手続きとせよということであります。
 この手続きこそ日蓮にちれんだい聖人しょうにんが全人類に授与された本門ほんもん戒壇かいだんだい本尊ほんぞんを日本国がこっの命運を賭してもしゅたてまつる」との意思いし表明ひょうめい、これが勅宣ちょくせんならびに教書ぎょうしょなんですよ。
 このことは、日本国の王臣おうしんしゅぞくこたたてまつった姿でもある。
 遺命ゆいめい本門ほんもん戒壇かいだんはこのように勅宣ちょくせんならびに教書ぎょうしょ、すなわち「仏法ぶっぽうしゅたてまつる」とのこっ意思いし表明ひょうめい建立こんりゅうの必要手続きとするのです。
 このゆえに、富士大石寺門流では遺命ゆいめい戒壇かいだんを「国立こくりつ戒壇かいだん」と呼称してきたんですね。
 「勅宣ちょくせんならびに教書ぎょうしょもうくだして」とのおおせがあればこそ「国立こくりつ戒壇かいだん」と呼称してきたんです。
 すなわち、辞書で「国立こくりつ戒壇かいだん」を引けば「国の費用で建てて国がかんする。それを国立こくりつというんだ」という一般論いっぱんろんが出ております。
 それを遺命ゆいめい戒壇かいだんに当てはめて「国立こくりつ戒壇かいだんえばこっが建てて維持いじかんする」という馬鹿なことほっ講員こういんが口にしておりますが、そんなものではない。国の費用で建てて維持いじかんするのではない。
 「こっ本門ほんもん戒壇かいだんだい本尊ほんぞんを命かけてこっの命運を賭してもしゅたてまつる」とのこっ意思いし表明ひょうめいを発出する。
 その時に本門ほんもん戒壇かいだん建立こんりゅうされるからこそ本門ほんもん戒壇かいだんを「国立こくりつ戒壇かいだん」というんです。国の費用で建てて維持いじかんするんじゃないんですよ。
 勅宣ちょくせんならびに教書ぎょうしょを必要手続きとするから「国立こくりつ戒壇かいだん」というのであります。


鳥取会館御入仏式 浅井先生指導