でこのように、たいしゅうにおもね、たいしゅうの力をぶんたちしんどうにする。
 では、たいしゅう支持しじする者が必ずしもただしいのか。みんなのしんずる物がただしいのか。
 見ててごらんなさい。がくかいでもそうでしょう。
 数百年前までは、天動説てんどうせつをみんなしんじておった。ひとのコペルニクスが動説どうせつを唱えた。
 「太陽たいようが回ってるんではない。きゅうが回ってるんだ」とったらば、キリスト教の教会で迫害はくがいを受けたでしょう。
 だけど、ひとのコペルニクスの方がただしかったではないか。
 また、せいかいでもそうですが、みんなが支持しじする者がただしいのか。
 ヒットラーはテロを起こしたわけじゃないです。政権せいけんを乗っ取ったわけじゃないですよ。
 彼は合法的ごうほうてきにワイマール憲法けんぽうもとでもって選挙せんきょおこなったでしょう。
 ところが、たいしゅう煽動せんどう誤魔化ごまかすのがうまかったから、ねっきょうてき支持しじでもって政権せいけんを取ってるんですね。
 ところが、あのような犯罪的はんざいてきこうをやってる。
 私はいつもおもっておりまするが、ざいにおいてもしろん調ちょうなんかやったらだれが1位になるか。りょうかんですよ。
 あれはみんなたくみに橋をかけては「みんなのため」とっていろんなことをやって、ぜんぎょうをやってみんなをたぶらかすことはうまかった。
 しかし、そのぜんぎょうの裏でもってうんと税金ぜいきんを取っておったんですね。
 ところが、みんな本当のことはわからない。その邪法じゃほうたぶらかされて、ぼとけのごとくおもった。
 そういうような一つのみんなのしんじていることがいかにインチキかということがわかるんですね。

 そこに、コペルニクスがただひとがくかいでもって動説どうせつを唱えたように、じょうぶつの法というのは、一人いちにんだいしゃ生命せいめいごくをおさとりになって「じょうぶつ大法だいほうはこれなのだ」ということひとさとりになって、それをたいしゅうに教えるということなんでしょう。

 これをみょうらくだい

一迷いちめい先達せんだつきょうめい

という言葉をもってしめしているんですね。

 「一迷いちめい先達せんだつして、ってめいおしえん」

 「一人いちにん智恵ちえあるお方が、まず先に、生命せいめいごくをおさとりになる。じょうぶつ大法だいほうをおさとりになって、それを、まだ迷いの中にあるたいしゅうに教えていくんだ」

 これが、おん元初がんじょにおける一人いちにん本仏ほんぶつ御振おふいであり、そして、末法まっぽうにおいてはだいしょうにんさまのお姿がまさしくそれですね。
 ほんこくちゅうが誰もじょうぶつの法を知らない時に

ほんごくれをれるものただ日蓮にちれん一人いちにんなり」

おおせになったでしょう。だいしょうにん以外にはこのことをお知りになるものはいない。
 そして一切いっさい邪法じゃほうちがってる」このことだいしょうにんさまただ一人いちにんがお知りになった。
 そして、じょうぶつ大法だいほう

日蓮にちれん一人いちにんはじめは南無なむみょう法蓮ほうれんきょうとなへしが、にん三人さんにんひゃくにんだいとなつたふるなり。
 ないあまつさ広宣こうせん流布るふときは、ほん一同いちどう南無なむみょう法蓮ほうれんきょうとなうることだいまととするなるべし」

おおせになった。

 「だいしょうにん一人いちにんが始められたお題目だいもくは、やがてぜんにっぽんじゅうが唱えるようになる」と。

 あるいは『報恩ほうおんじょう』には

日蓮にちれん一人いちにん南無なむみょう法蓮ほうれんきょうこえしまずとなうるなり。
 ない日蓮にちれん慈悲じひ曠大こうだいならば、南無なむみょう法蓮ほうれんきょう万年まんねんほからいまでもながるべし」

おおせになった。

 この日蓮にちれん一人いちにんというこの御言葉の中に、だいしょうにんさまの深き教えにもとづいただい確信かくしん、そして、何としても一切いっさいしゅじょうじょうぶつせしめんとする鉄石てっせきけつ慈悲じひというものがふくまれているんですね。
 ですから、誰がわからなくとも、誰が反対はんたいしようとも、迫害はくがいしようとも、だいしょうにんさまが「日蓮にちれん一人いちにん」の確信かくしんでお立ちになられた。ぶつ弟子でしもそうでなければいけない。

 ここに、日興にっこうしょうにんが、5人の老僧ろうそう似非えせしょうじゅおちいって、ぜんだいしょうにんさまそむいた時「遺命ゆいめいなんかがんちゅうに置かない」そういうような敵対てきたいおちいった時にこうおおせになっておられるでしょう。

弟子でしことごと敵対てきたいせられおわんぬ。
 日興にっこう一人いちにんほんしょうぞんじて、本懐ほんがいたてまつるべきじんあいたっておぼそうらへば、本意ほいわするることなくそうろう
と。

 「門下の弟子でしは、富士門流以外は、冨士大石寺以外はぜん敵対てきたいになってしまった」

 そこに日興にっこう一人いちにんおおせになって

ぶんだけがだいしょうにん遺命ゆいめいを知ってるんだ。その遺命ゆいめいじょうじゅ達成たっせいすべきそのたちに当たっているのは、その遺命ゆいめいだいを一日として忘れたことはない」

ということおおせになっておられる。
 これがですからだいしょうにんさま仏法ぶっぽうしんずる者の姿すがたであります。
 そうなんでしょう。日蓮にちれん一人いちにんだいしょうにんさまおおせになったことを、ぶんたち広宣こうせん流布るふまでは「われひと立つ」とのこのけつで立たなければいけない。
 広宣こうせん流布るふまでは、あるいはぶんぞくぜん反対はんたいしているかもしれない。ていの中でしんじているのはぶんだけである。しょくに行ってもぶんだけである。学校がっこうへ行ってもぶんだけである。
 しかし「やがてぜんの人がしんずるんだ」「まず最初にこの大法だいほうに目覚めたぶんひと立つ」とこのけつに立たなければいけない。
 どういうたちであろうとも、どういういきであろうともひと立つ。
 この気迫でもってだいしょうにんさま御味おみかたを申し上げる人を「地涌じゆさつ」というのであります。


平成21年 4月5日 浅井先生指導