2018年、鹿児島出張時に学校の先生が仕事後に知覧特攻平和会館に

連れて行ってくれた。今も強く記憶に残っているのが、隊員達の遺書、

そして復元された「三角兵舎」である。

 

知覧特攻平和会館の三角兵舎と寝床

 

出撃が決まった特攻隊員たちは、最期の数日間をここで過ごしたという。

薄暗い木造の兵舎。両側に整然と並ぶ寝床。

 

先ほど、久しぶりにその時に撮った写真を見た。

ここで若者たちは何を考えて夜を過ごしたのだろう。

「あと3日」

「あと2日」

「明日」

そして、出撃。

組織的な特攻作戦が始まったのは、1944年10月のフィリピン、

レイテ沖海戦の頃である。

 

すでに日本と米国の戦力差は圧倒的だった。

航空機も熟練搭乗員も燃料も足りない。

通常の攻撃では敵艦隊に近づくことすら難しくなっていた。

 

「このままでは勝てない。しかし、何とかしなければならない」

 

軍上層部の焦燥と、「国を守りたい」「家族を守りたい」という若者たちの

思いが重なっていく。

もちろん、特攻隊員のすべてが自ら死を望んだわけではない。

「志願」という言葉だけでは説明できない軍隊組織の圧力もあっただろう。

それでも彼らは、出撃の日まで待った。

そして、この「待つ」ということを考えているうちに、もう一つの戦場を思い出した。

 

硫黄島である。

1945年2月、米軍が硫黄島へ上陸した。

ここで栗林忠道中将が採った戦法は、それまでの日本軍の戦い方とは

かなり異なっていた。圧倒的な敵を前にしても、むやみに突撃してはならない。

水際で決戦せず、地下陣地に籠もり、敵を引きつけ、少しでも長く戦い続ける。

いわゆる「万歳突撃」を厳しく戒めたのである。

 

これは兵士にとって、想像を絶する命令だったのではないだろうか。

圧倒的な艦砲射撃と爆撃。

地下壕の暑さ。水も食料も乏しくなり、周囲では仲間が次々と倒れていく。

 

そんな極限状態になれば、

「もうワーッと全員で突撃して終わりにしたい」

そう思う兵士がいても不思議ではない。実際、栗林の方針に反して突撃した部隊もあった。

 

簡単に死ぬな。

陣地に留まれ。

一日でも長く戦え。

 

これは「死を恐れるな」と命じるのとは、また違う残酷さを持っている。

 

人間にとって、本当に苦しいのは一瞬の恐怖だけではない。

いつ終わるか分からない恐怖の中に留まり続けることもまた、途方もなく苦しい。

怖くても、そこにいる。

仲間が倒れても、そこにいる。

助かる可能性がほとんどなくても、今日を生き延び、明日も戦う。

そこには、「死ぬ覚悟」とは別の、凄まじい精神力が必要だったと思う。

 

知覧と硫黄島。

一方では、出撃の日を待つ若者たちがいた。

もう一方では、突撃することさえ許されず、地下壕で戦い続けた兵士たちがいた。

知覧では、死ぬ日を待った。

硫黄島では、死を急ぐことを許されなかった。

どちらがつらいかなど、比べられるものではない。

ただ、戦争というものを考えるとき、戦死した「その瞬間」だけを見ては

いけないのだと思う。

その前には、長い時間があった。

恐怖があり、葛藤があり、故郷への思いがあり、家族への思いがあり、

そして何より「生きたい」という、ごく普通の人間の感情があったはずだ。

 

2018年、知覧の三角兵舎で撮った一枚の写真。

8月15日の今日、改めてこの写真を見る。

静かに並んだ寝床を見ていると、戦争の本当の残酷さとは、命を奪うことだけ

ではなく、その日が来るまで、人間に耐え難い時間を耐えさせることでも

あるのだと思う。