学部生のときのこと | 神産巣日神(かみむすびのかみ)のブログ

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古来、日本では、「愛」と云う字を使わないで、「産巣日(むすび)」と言いました。「むすび」と云う言葉は、「愛」と云う言葉よりも非常に深遠な意味を含んでいるのです。ときに、神産巣日神は「造化の三神」の内の一柱の神であり、獨神(ひとりがみ)で御座います。唯々感謝。

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 さて、去る 4年前の2月22日(金)の「父親の食事、洗濯 そして 入浴・100」のブログの中段に、

「(前略)去る 一昨々年さきおととしの2月1日(月)の『同期会・欠席』のブログの上段に、

『(前略)このクラス会のことを伺い、思い出したことがありました。学部生のときは、6年間 クラス委員でした。(中略)1回生の一学期(三学期制でした)終了後、クラス・コンパを行うように 事務から言われました。(中略)クラス委員ですので クラス・コンパの幹事をすることになります(後略)』と 記させて頂きました。すなわち、学部生のときは、クラス・コンパの幹事役でもありました。(後略)」と 記させて頂きました。

 ときに、大学1年生のときのことであります。すなわち、上記のように クラス委員であり、クラス・コンパの幹事役でもありました。それで、そのクラス・コンパに出席してくれた 「福田重夫」という クラス担任に 挨拶に行かなければなりませんでした。そこで、誠に有り難いことに、このクラス担任からは いろいろと話をしてもらって たいへん お世話になりました。 ちな みに、このクラス担任には 母校の4年先輩に 「福田功」という 息子が在籍していましたので、その息子に話す代わりになっていたのかもしれません。なお、この息子は 変人であるという 評判でありました。すなわち、教養学部のあった 東急 新丸子駅前の店で売っていた ミドリガメを すべて 引っ繰り返したというような話が耳に入りました。但し、その父親である そのクラス担任には 上記のように お世話になりましたので、代わりに その息子に恩返しをしようと思いました。それで、その息子が 法医学の教科書を必要としているときには、その法医学の教科書を買いました。

 ところで、去る 一昨年おととしの3月23日(火)の「養子斡旋あっせん(母体保護法[旧・優生保護法])」のブログの上段に、

「(前略)去る平成9年の夏に、某・教育学会で 論文を書いて 発表したことであります。すなわち、母校にて 産婦人科を臨床実習し、ausアウス(人工妊娠中絶)の見学をさせられました。選ばれて 現場を見学させられた責任と、『この現状を  なんとか しなければ』との使命感をいだき、卒業後 平成4年、厚生省(当時の名称・現在の厚生労働省)に入省を希望致しました。なお、卒業後 5年間は 希望出来ます)

 入省希望の動機は、『優生保護法(昭和23年制定[法律 第156号]昭和27年、人工妊娠中絶は 医師の認定へと簡略化。現在では、正確に記するため、中絶件数は (社)日本母性保護産婦人科医会をて報告)改正に臨むことが 男子の本懐であり、草案の作成を行うことに一生をけたい。』ということでありました。そして、思い深いあまり、『入省して 国家に医師免許を お返しすることを希望致します。』 と志願致しました。(後略)」と記させて頂きました。

 なお、その息子は 卒業して 産婦人科(英語:obstetrics and gynecology)(医学用語として 省略して 「ギネ」と言われることがあります)に入局しました。それで、B.S.T.(英語:bedside teachingベッドサイド・ティーチング)(日本語:臨床実習)(現在 母校では B.S.L.[bedside learningベッドサイド・ラーニング]とい、学部生との話しによると、教えるというよりは 習うという意味が強くなったとのむね御座ございます)で その息子が入局した ギネを回っているときに、その息子に会いました。但し、その息子から 当方のことをきらいと言われました。ついながら、上記のように 平然と ausアウス(人工妊娠中絶)が行われている ギネとは、波長が合いませんでした。いずれに致しましても、その息子に恩返しをしようと思っていることは、その息子には分かりません。それで、その息子のほうから 距離を置いてきたわけでありますから これで 終了でありと思われました。 ちなみに、その息子とは 会っておりません。

 

  つぎ に、上記のB.S.T.のときのことであります。すなわち、同期生に 東京工業大学を卒業した学士で 就職をして 30歳になってから 入学した 「山口 竹千代」という男子が ました。 ちな みに、彼によりますと、B.S.T.の際に 上記のギネで 指導医師から 何度も 子宮の触診を させてもらったとのことでありました。それで、こんなもんかと思った とのことでありました。つまり、とぼけていました。

 さて、去る 8年前の1月1日(金)の「謹んで新年の御祝詞を申し上げます。(智慧ちえと愛)」のブログの中段やや下に、

「(前略)上記の 智慧ちえと愛につきまして記させて頂きます。愛の奥深いところには  智慧ちえが宿っており、 智慧ちえの奥深いところには 愛が宿っているのであって、愛が宿っていない 智慧ちえは本当の 智慧ちえではないのであります。真の愛は 智慧ちえを完成するのであります。愛なき 智慧ちえは神から きたらないのでありますから  狡智こうちとなって 容赦なく人を さばくことになり 人と人との調和が得られず 善も真に善となることが出来ず、 かえって人を傷つけるのであります。愛は神の 智慧ちえによって まっとうせられ、 智慧ちえは神の愛によりて まっとうせられるのであります。 智慧ちえと愛とは 車の両輪のようなものであります。なお、一部 プラグマティズム(英語:pragmatism)(実用主義、道具主義 そして 実際主義)のような 実の たとえが入りますが、愛があらわれて来ない生命は 花咲かない樹木のようなものであり、 智慧ちえの あらわれて来ない生命は 水の れたる樹木のようなものであるから、どちらも良き実を結ぶことが出来ないのであります。生命が 智慧ちえを顕在にあらわして来るとき、愛によって 花咲きたる樹木が、落果しないで 果を完全に結ぶことになるのであります。また、『美』で考えてみますと、 智慧ちえのないところに形の美しさは無く 愛のないところに心の美しさはないので、 智慧ちえと愛とは 生命が この内包する美を展開する ための 前述のように 車の両輪とも言うべきものであります。(後略)」と記させて頂きました。

 ときに、上記の B.S.T.の際の ギネで、「金子 晴生」という 男子が ました。 ちな みに、彼によりますと、そのB.S.T.の際に 上記のギネで、女性の陰部を見て、「(前略)顔の綺麗な女性は あそこも 綺麗。(本人の言葉通り)」とのことでありました。すなわち、誠に有り難いことに、「『美』で考えてみますと、 智慧ちえのないところに形の美しさは無く(後略)」と前述致しましたように、形の美しさは 顔にも 陰部にも 共通して 現れるのでありますね。

 

 (義務教育の方々かたがたに 美しい日本語を 正しい読みかたで 御覧頂こうと思いまして、当初から 振り仮名ふりがなを付けております)

 本日も、最後 まで  お読み頂き、誠にありがとうございます。唯々感謝。(^-^)