
日本からずっと離れて暮らしていると
なんでも無い日本語の言葉にグッときて
その言葉を発しているだけで
その人が素敵にみえてきたりしてしまう
例えば特有の「男言葉」
17歳の頃からアメリカに居て英語まみれで
それ以前に 育った家が
父親が常に仕事で不在の女だけの家庭で
聞き慣れていないせいか
日本語独特の男っぽい言い回しに弱いところがある
しかもそれは
これ以上くだけようが無いんじゃない?
ってほどの
くだけまくった言葉たちで。
たとえば、
「~~しろや!」
「ちげーのかよ」
「~~じゃねーよ」
「きさま~」
そんな類い(?)の言葉。
過去に自分のツボであったはずがなかったような
荒っぽい意外な言葉たち。
勿論、大声で怒鳴るのは無し。
なんか溜まってるけど抑えてるっていうか
我慢してるかんじ(?)で言ってるのがいい。
それもただそう言えばいいっていうもんでもなく
なんていうのか
普段真面目に頑張ってて、普通に話してる男性たちが
たまにボロッとこういう言葉を出すと
グッとくるのよ・・・
そういう言葉に対する免疫が無いのだろう
多分。
何故今そんなことを考えているかというと・・・
以前一度だけ行ったことのあるイタリアが大好きで、
イタリア在住の方が書くブログを
いつも徘徊させてもらっているのだけれど
その中のひとつで
若い料理人さんの yuichirooooさんのブログ
イタリア料理とボク☆
最新のエントリー「どかーん」に、
まさにそんな言葉がひとつ有ったから。
私には違う意味で「どかーん」だった。(笑
このエントリーでは特に、
海外で働く日本人の切れ味が率直に見える
一つの要因になったかも
で、ここでお遊びですが
グッときたのはどの言葉でしょう?(笑
なんなんだろうね。これ。
(ホントは不思議に思ってない)
ヒト科の生物学的にどうなんだろう?
(難しい言葉で説明が有れば
話が少し引き締まるかもしれないから聞いてたり。笑)
免疫ができていないというのは
ちょっとあぶなっかしい気もするけれど
そのぶん趣があっていい(笑
⌘ ⌘ ⌘
それにしても
生まれた時から耳に入っていた言語って
心にまとわりつく
感情を表すものは特に。
英語は、
その意味だけではなく繊細なニュアンスも察知できて
ある意味で心に響くことはあっても
こう 心の奥の奥底まで浸透して
絡まり続けることはない
そんな現実がこの心に
一つの渇望を産むのかもしれない。
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ワシントン州には沢山のワイナリーがあるけれど
中でも大手がこのChateau Ste. Michelle
Woodenvilleという、
シアトルの東側にあるのどかな町にある


会員になると
年に4回ワイナリーおすすめのワインを二本配布され、
ティスティングをしならがワインの勉強もでき、
夏に敷地内で催される恒例ジャズコンサートのチケットの前売りなど
なにかしら特典があるのが嬉しい


上はメンバーオンリーのワインテイスティングができる部屋
別館のショップ内で一般客もティスティングを楽しめる

ワインの肴によく使う大好きなクラッカーが
二種類揃って陳列されていたので
撮ってみたけれど、酷いピンボケ
残念・・・
敷地はよく整備されていて
ヨーロッパ調の建物がほんのりと風情を引き立てる

夢の様に美しいと思った風景が
表現できていない・・・


日差しがとても強くて、肉眼には美しい風景も、
シロウトのカメラにはおさまらず

美しい場面をいくつも捉えたと思ったのに
使えるものはほんの数枚。
でも感じを掴んでいただくために
あまり良いとは思えないものも動員してみました。
やっぱり写真の勉強を正式にしたいな・・・
ああ、やりたいことだらけで困った!

永いドライブウェイを走って外にでると

お向かいには また別のワイナリー
Columbia Wineryが。
他にも小さなワイナリーが多く点在しているWoodenville
美味しいレストランも多い
不思議な田舎町です。

Chateau Ste. Michelle
14111 Northeast 145th Street
Woodinville, WA 98072-6982
(425) 488-1133
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自分への記録
見飽きた自分のプロフィール写真を替えようと
吟味していてふと
以前から感じていた事を思い出した。
英語版でのブロガーさん達の世界を観ると
実写真を載せている人が圧倒的に多い。
顔と名前と書いている内容、それら総てが連結して
その人のアイデンティティーを作っている。
以前、
Twitterの英語版で大勢の人との接触を楽しんでいた時、
顔の一部分を文字で隠して、
なんとなくぼかしたものをアバターにしていた。
暫くして、
ある、ちょっと仲良くなり始めたTweeterさんの一人から
クレイムを貰った事がある。
君は何か隠してるの?
どうして顔全部を出さないの?
なんだか親近感持てないし、信用しにくいな。
そういわれて、暫く考えた末、
すでにある程度公開していた自分の人物像解説に添えて、
素の顔写真を掲載した。
そうしたら、急激にフォロワーさんが増え、
以前に比べてより実のある交流が持てるようになった。
そこで、それまで
素の顔を公開せずにネット活動をしていた理由が何だったのかを
改めて考えるようになった。
ネットで日本にだけ向けた発信をしていた時に、
アイデンティティーをぼかすという癖がついたのだが、
私がそうするのは、
日本は国が小さいだけ個人情報が広がり易く
危険であるという事の他に
個人的な理由があった。
日本とのコネクションが薄い私にも、
アイデンティティーをぼかす事によって
日本の家族の立場を守るという目的があったのだ。
『コンフォーミティー:整合』というものを大切にする日本、
その日本に向けて遠くから好き勝手をしている私が
母と妹の立場を傷つけてしまうのを避けるというものだ。
ここでいう「好き勝手」というのは、
単に自分の本心を考慮深く述べていくこと、
自分を正直に、率直に表現していく事を指す。
考える葦であるヒトにとって
それはごく自然な作業であるはずなのに、
私が生まれおちた世界には
それは許される事では無いという印象を持ったまま育った。
海外に出て数年後、
二十歳の頃からずっと何かを言い続けてきた私は
もう49歳というのに言いたい事はまだまだ沢山ある。
今はもう
自分を肉親達から隠す必要があるとは感じていない
私には、後悔はあっても
恥じなければならない事は何も無いから。
一生懸命生きているなら
堂々を顔を見せられる
こういう人間ですと、公表できる。
そういう事を、
特に保守的な生まれ故郷から出たその外で
私は学んだと思う。
⌘ ⌘ ⌘
この記事は、顔写真を見せない人に問題があると言っているのでは無く、
又顔写真を見せるべきだという訴えでもありません。
顔写真を載せない方々にはそれぞれの理由がお有りでしょう。
それはそれで良いと思いますし、できればこれからも楽しい交流を
楽しませていただきたいです。
これはあくまでも、個人的な状況にある自分也の見解からみて
自分自身を見つけ直した記録として書きました。
どうぞご了承ください。
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