良い行いをした者は天国に行き、
悪い行いをした者は地獄に行くという話、あれはウソだと思います。
噂によれば、そういう教えの宗教ってあるみたいですが、その部分はウソだと思います。
なぜウソかというと、そんなことは誰にも分からないからです。
分からないのに断言できるのはなぜか、人間が作ったからです。
人間が自らの意志で作り出したものなので、「そういう教えがあるの」と断言できるのです。
作られたお話、ストーリー、考え方の一つであって"事実"ではないし、"真実"でもないです。
だから地獄に堕ちるのが怖くて宗教を続けざるを得ないという人は、やめても別に大丈夫です。地獄には行きません。
だって、言葉が生まれる前の世界、いわゆる原始人みたいな
木の槍を持ってウホウホしてた人たちもかつていたわけじゃないですか。
その人たちの善悪ってなんでしょうか。
どういう人が天国に行って、地獄に行ったのか明快に論理的に説明しろと言われるとかなり難しいと思います。僕はそれ考えてくださいと言われたら嫌です。
所詮、人間の思考が作り出したファンタジーなんです。
でも否定はしません。ファンタジーが人を救うのであれば、それは良いものだと思います。
ここでがらっと話を変えると、人を動かす力というのは三つあります。
「わくわく」と「利」と「恐怖」です。
「わくわく」は「欲」とも近いのですが、わくわくすることって人はやってしまいます。
YouTube観てて「え?これなんだろう?気になる」ってサムネイル見たらわくわくしてつい押しちゃいますよね。
「利」は「得をすること」です。
お金とか権力とか物がもらえるとかそういうものですね。
そういうものには人を動かす力があります。
そして「恐怖」ですね。
お酒が大好きでも「このまま行くとあなた死にますよ」と健康診断で言われたら、お酒をやめられたりします。
これは「恐怖」が人を動かしています。
他にも「このまま行くとあなた地獄に行きますよ」と宗教で言われたら、びっくりして「じゃあ何をしたら良いんですか?」って聞いてしまうかもしれません。
「それはね、〇〇」ということをやり続けてしまうかもしれません。やめられなくなるかもしれません。
動かしているのは「恐怖」です。
別にそれが良いとか悪いとか言うつもりはありません。
動かしている原動力が「恐怖」ですよという話と、
恐怖で動いているそれって良いものなんでしょうかっていう話と、
所詮、ファンタジーなのに「恐怖」が必要なファンタジーってなんですか?なんで恐怖が必要なのか冷静に考えてみませんかという話です。
「恐怖」は人を動かせるから、便利ですね。ファンタジーは恐怖作り放題です。
悪い人が「恐怖」と「ファンタジー」を組み合わせたらさぞ厄介なものを作ると思います。
何とは言いませんが、こういう見方はあると思います。
さて、でも僕って「宗教」そのものは「哲学」と同じで使いようによっては良いものだと思っています。
(ただ、間違った使い方をして人を不幸にしている輩はゴミクズだと思っていますし、そういう教えの解釈もクソだと思っています。)
だから冒頭の
「良い行いをした者は天国に行き、悪い行いをした者は地獄に行くという話」
ウソだと言いましたが、捉えようによってはこれはウソじゃないかもしれません。
どういうことかと言うと、これは死んだ後の話ではなくて、死ぬ直前の話なのです。
死ぬ直前、良い行いをした人は大切な人たちの顔が走馬灯のように浮かんでくるでしょう。
「ああ、あの人と出会えて本当によかった。苦労をかけたけど、感謝しているなあ。嫌なところもあったけどなんやかんや成長させてもらったなあ。」とか。その感覚は天国だと思います。
一方で悪い行いをした人は
「ああ、あいつ腹立つなあ。なんなんだよ、全く。ていうか色んな奴に恨まれてるんだろうなあ、俺。誰にも言えなかったけど正直申し訳なかったかなあ。」とか。こんな最期は地獄だと思います、それこそ。
たぶん最初に「良い行いをした者は天国に行き、悪い行いをしたものは地獄に行く」と言った人は
これが言いたかったんじゃないかと思います。
それを後世の人がもっと分かりやすい解釈として、
「良い行いをした者は死後天国に行き、悪い行いをしたものは死後地獄に行く」というファンタジーに変換し、
更にこれを悪用する者が
「地獄に行きたくないでしょ?じゃあ良い行いをしなさい。良い行いというのは〇〇・・・」ハイ、入信
みたいなそういうことをやるようになってしまったのです。
「宗教」と「哲学」は使いようです。
所詮、人間が作ったファンタジーです。
ウホウホ原始人がそんなことで悟ったり悟らなかったり天国に行ったり地獄に行ったりしたわけがないのです。
一度きりの、自分だけの、自由な、何をしても良い人生です。
他人の人生を生きる必要はないし、他人から選ばされたものを選び続ける必要もないのです。
信じたいものを信じましょう。
信じなければいけないものなどありません。