天国行きと地獄行きはウソだと思う2 | 「繊細さんの応援歌を歌う。」繊細ソングライター磯中ゆうき

「繊細さんの応援歌を歌う。」繊細ソングライター磯中ゆうき

「これでいい。」って思えるのは正しいことに出会ったときじゃなく、
楽しいこと・元気になれることに出会ったとき。
聴くと自己肯定できるような音楽を届けたい。

この記事の続きです。

 

僕は倫理の授業が大好きだったので、哲学が大好きですし、

それに伴って宗教というのも好きで興味がありました。

 

「真実」というのが何か気になって、

本を読んだり、ネットで調べたり、自分で考えたりもしました。

特に仏教にはそれがあるんじゃないかと思って、調べたときもありました。

 

結論ですが、「真実」というのは「ない」ですね。

 

正確に言うと「言語化できない」です。

 

言語化された真実っぽいものはあるけど、所詮それは真実ではなくて一つのファンタジーだと思っています。うまいこと言ったみたいな。

人間の錯覚を利用したマジックみたいなものだと思っています。何言ってるか分からないですよね、説明します。

 

「我思う故に我あり」と言った人がいます。デカルトさんですね。

これはうまいこと言ったなあと思います。

「私がいま考えているということは、この考える私というのは確実に存在する」という話です。

これはすごく真実っぽいです。

 

でも「大喜利的に気が利いたコメントですよね」と言ってしまえばそれまでな気もするし、

「それはそうですけど・・・で?」と言われたらその後、困ってしまいます。

 

「生老病死」という話もありますね。

人生は苦しみばかりだと。

老いていく、病気になる、そして死ぬ。生きることも苦しい。

どんだけ暗いねんと素直にツッコんでも良いと思いますが、

自分がしんどかったりすると逆に優しいなというか救われるみたいなところもあるかもしれません。

そんな苦しみに囲まれた中で「生きる意味を探す」という体ならちょっと頑張れるかも、みたいな。

こういう「誰しもが客観的に認めざるを得ないことを言語化する」っていうのはできそうでなかなかできないので、

それがうまくいくと名言になったり、宗教になって語り継がれたりします。

それは真実っぽいですね。

 

でも、それがただ一つのもので、人生を明るく照らすか、

と言われるとそこまでの力はないように思います。

 

他にも色々と真実っぽいことはたくさんあって、

先人がうまいこと言語化してくれたことってありますが、

「ただ一つの真実」として言語化されたものというのは今のところ僕は知りません。

いや、逆に知ってたら誰か教えてください。

 

でも良い意味で、宗教も哲学もこんなもんだと思っています。

「教え」である以上、言語化できたり、再現性がなければ意味がないはずですが、

そのレベルの完成度の高い教えはまだこの世にはないと思います。

 

その上でファンタジーを信じて便利に使うのは自由です。

ファンタジーって言われて気に障る人は「ファンタジーじゃない」って言っても良いと思います。

でも、僕にとってはファンタジーだし、理屈で考えたらファンタジーなので、そこは人に押し付けないで欲しいなとも思います。言論の自由はありますが、信教の自由もありますよね。

 

 

ちょっと触れにくい話題なので、僕の中ではあったもののあんまりハッキリとは書いてこなかったのですが、

宗教の問題が世に表出して来ているので、僕なりの考えを書いてみました。

 

まとめると、

①言語化とか以前のウホウホ原始人ワールドがあるので、善・悪とか悟る・悟らないによる人生の差異とか、はたまた裁きなんかあるわけない。(あるとしたら死ぬ直前、人生に馳せる思いの違い)

②言語化されたただ一つの真実なんてない。真実っぽいものがたくさんあるだけ。

 

もしかしたら真実っぽいものを100コくらい並べたら、その真ん中に真実というのが浮かび上がるかもしれませんが、

やっぱりそれも言語化できないっていうか、言語化するとしても超長かったり、

何か辿り着くということにはならないでしょう。

 

最後に重ねて言っておきますが宗教に否定的なわけではありません。

人を救う面もあるし、信じたいものをそれぞれが信じれば良いと思います。

 

でも宗教の違いで人が人を殺す、殺すことを正当化することはたまらなく許せません。

所詮、ファンタジーということが理解できていないから、

ファンタジーなんて言うな、俺たちが正しいんだ、クソー、と自分が正しいと信じて疑いもしないから、

そこまで狂うことができる。

 

個人的な意見ですが、人を救うような教えを説いた聖人、始祖はですね、絶対人を殺すことなんか望んでなかったですよ。

A教とB教があって、始祖同士考え方に多少違いがあったとしても、絶対殺さなかったですよ。

仲良かったと思いますよ。「なるほどねー、あなたはそういう考え方なのねー。」って。そういうときあるじゃん。

もしかしたら時にケンカしたかもしれませんよ。「それはおかしい!俺が正しい!」って。そういうときあるじゃん。

でも、殺しはしないですって。2,3日口をきかなくなるか、「よくよく考えたらあいつの言い分も一理あったかなあ」とかそんな感じですよ、きっと。そういうときあるじゃん。

 

始祖ではない誰かがね、「わくわく」じゃなくて「利」と「恐怖」で人を動かそうと考えた末路が、宗教戦争だと思うのです。

 

人を救う教えは素敵だけど、人を殺す教えはクソくらえなので。

 

僕なりの言葉で綴ってみました。何か伝わるものがあれば幸いです。