流産後のこと | すみれときいろとフィリピン生活

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流産後は、悲しみに暮れてばかりもいられず、早急に諸々の手続きをする必要があります。

具体的には

①病院から死産証明書をもらい、役所に死産の届出をする
②役所で死胎火葬許可交付申請書を記入・提出し、許可書をもらう

③火葬場に電話し火葬予約する

④死胎火葬許可書を持って、赤ちゃんを火葬場に連れていく

 

という流れです。


お産の翌日、私はまだ退院の許可がもらえていなかったので、夫と母に上記③までの手続きをしてもらいました。

ひとりになりたかったし、皆がとりあえず目の前のやらなければならないことをこなしているうちは余計なことも考えなくていいな、と思いました。


その夜、外出許可をもらって、夫とふたりで久しぶりに外食をしました。

入院生活は約2週間でしたが、13週頃から自宅安静で、ほぼ寝たきりの状態が続いていたので、その間約2ヶ月。

産後の重度の貧血もあり、立ち上がるだけで目眩がして、ひとりでは歩けない状態でした。

人は2ヶ月でこんな風になるのか。


それまでの私は毎日通勤に往復1時間歩き、誰かと一緒に歩けば「歩くの早い」と苦情を言われるほどだったので、その変わりようにびっくりしました。

日々の通勤で培ったふくらはぎ筋も見る影なく、これには「足痩せたな」とちょっと喜んでみたりもしましたが、まぁいい痩せ方ではないですね。


外食は、入院中ずっと食べたかった、こってりラーメン屋さんへ。

美味しい、けれど、一生ラーメン食べられなくてもいいから、赤ちゃんたちが欲しかった

そう思ったらまた泣きそうになって、ぐっと堪えながら味わいました。


「やっとラーメン食べられた、美味しい」

「これからまた美味しいのたくさん食べに行こうね」


そんな優しくて寂しい言葉を交わしながら、帰路に就きました。



翌々日、無理やり退院許可を貰って、その足で火葬場へ。

小さくてかわいらしい双子たちと、最後のお別れをしました。

骨は小さくて柔らかいから残らないだろうと言われたのですが、少しだけ、残ってくれたので持ち帰りました。


火葬場でもたくさん泣いて、みんなちょっと腫れぼったい顔で、でも辛気くさくしたくもなくて、「なんかジャンキーなもの食べたい」と私の提案でA&W(沖縄県民ご用達のアメリカンファストフード店)へ。


何かぽっかり空いたまま、笑いながら明日以降の話をしたりして、心と体がふわふわと乖離している感覚でした。


この感覚は沖縄にいる間ずっと続きそうな気がして、それでもよかったのかもしれないけれどなんだか耐えきれなくて、私は両親の制止を振り切ってさっさと神奈川の家に戻ることにしました。