「何だと!!」某新聞の人生相談を見て思わず叫んでいた(心の中で)。「友達とは、ある一定の距離を保ちながら続ける関係」だと?友達との関係性に悩む相談者に対して、それは当たり前の回答だったのかもしれない。しかし私にとっては、ちっぽけな価値観をいとも簡単に壊された瞬間でもあった。何故なら自分の中での友達とは何でもヅカヅカ言えて、ほとんどの事を曝け出せる相手だと思っていたからだ。振り返ってみると、私には十年来の友達がいたが、数年前に色々なことが積み重なり疎遠になってしまった奴がいる。原因はというと、自分の勝手な見解を述べるなら、おたがい深い部分まで踏み込み過ぎたからと思っている。その時は友達だから当たり前だと思い込んでいた。それが勘違いだったんだなあ。
最近は自分を納得させるために、そいつとの関係は言うなればバンドメンバー又は夫婦みたいな関係だったと思うようにしている。そこには常に解散や離婚の可能性はあったのだと。
だからALを見たとき…マジかと思ってしまった。同業者で友達、遂にバンドも組む、この流れを妙に羨ましく思った私は、やはりアホなのだろうか。
でも、4人のアーティスト写真を見たとき、何とも言えないゾクゾク感があった。あの面構えとロックバンド的な佇まいに、期待せずにはいられないだろう。おそらく、これが単なる企画モノやユニットではないという確信があった。
ただ、それと同時に今作にそれ程の期待をしていなかったのも事実だ。もちろん、このALを構成する元andymoriのメンバー小山田壮平、藤原寛、そのバンドを脱退していた後藤大樹。ソロのシンガーソングライターで小山田壮平とも友好関係を持っていた長澤知之のどちらの音楽も愛聴していた私にとって嬉しい事この上ない作品なのだが。でも、その二つが合わさることで1+1=2以上になるのか、それ程の化学反応は起きるのかと考えたときに、そうは思えなかったからだ。そもそも彼らは、ケミストリーというものに突き動かされるタイプの音楽家では無いだろうという視点もあった。
しかし、『心の中の色紙』を聴いたとき、私は気が付いた。彼らにとってALというバンドでこれを生み出すことと、私たちがそれを受け取ることが、必要不可欠だったということに。
このALには小山田壮平と長澤知之という二人の孤独な人間が必要だったと思う。本人達からしたら、や、孤独じゃねぇというかもしれんが。でも私にはそう思えた。でもこの二人の孤独はお互い種類の違うものであった。
まず、小山田壮平は孤独を恐れていた音楽家だと思う。その孤独を消す為にandymoriという集合体が必要だったとも言える。だから、このバンドの音楽にはセンチメンタルがあった。でも最終的には彼の心の中の孤独は消えなかった。そして、バンドも解散に至ってしまった。
反対に長澤知之は孤独を愛せる音楽家だ。そもそもソロの歌い手である。常に一人で作詞作曲をする彼にとって、孤独など怖いものではない。だから彼の音楽に孤独感はあっても、常に強い芯が存在していた。敢えていうなら、その孤独を壊すもの(幸せとか)を逆に恐れているという喜劇的な視点も感じられる。
つまり、二人の孤独な人間、孤独を恐れていた小山田壮平と孤独を愛していた長澤知之が同じバンドメンバーとなり、結果二人は孤独じゃなくなったのだ。
じゃーなぜ、この二人はバンドを組み、音楽を奏でようと思ったのか。まあ、友達だし一緒にやったら楽しいだろうなと思って。たぶん、いくら今の青年は幼いといっても三十路を過ぎて、そんな子供じみた答えはないだろう。モンキー・ビジネス的に、食うためと言ってしまえば、身も蓋も無くなる。ましてや長澤知之はソロの歌い手で、あえてバンドを組む必要など無いといえば無い。売れるため?おそらくそれはないだろう。と考えるとベクトルの出発点は、やはり小山田壮平にある。あのバンドで言えなかったことが、まだあったのだ。それがALの最初の作品で語られたことだと思う。
このALのデビュー・アルバムを聴いて感じたのは、まず、音楽的な部分では小山田壮平の作る感傷的且つ性急なロックに、長澤知之のゆったりとしたブルージーな曲が交差しているということ。そして一番重要な声明は、彼らはこの作品で「敗北」を伝えたかったのだということだ。その一つはロックバンドとしての敗北である。
「北極大陸」という曲から始まるが、この歌いだしに”結局北極大陸に行き着いた/とっくの昔に見限った国旗を立てた“とある。この国旗とは、ロックを意味するのだ。
ロックとは昔から、敗北を歌ってきた。遡れば、70年代アメリカのロックバンド、イーグルスが「ホテル・カリフォルニア」でロック的な希望の敗北を歌い、その後、レッド・ホット・チリペッパーズが90年代に同じ地で、その時代のロック的な敗北を「カリフォルニアケイション」で表現した。また、「イージーライダー」という1969年の米国映画の古典で使われたステッペン・ウルフの「Born To Be Wild(ワイルドで行こう)」 という有名なイントロで始まる曲があるが、この絵に描いた様なロックらしいロックが流れていた映画も、アメリカのヒッピー文化の敗北を表現していた。
つまりロックとは常に敗北と隣り合わせの音楽だった。そのロックを使い、この日本で彼らは、彼ら自身のロックバンドとしての敗北を歌いたかったのではないだろうか…
そういえば、敗北という点では日本国も負けてはいない(意味が分からないが)。日本は戦争の敗戦国である。ポツダム宣言を受け入れて、日本は敗戦した。その先にあるのが今の豊かな日本…である。
話を戻すと、何故ロックは敗北を歌うのかと考えた時、勝利とは戦いの先にあるもので、ロックは戦わずして戦う音楽だとすれば、それは不戦敗という名の逆説的な勝利しかないからだと私は考えた。
と考えれば、日本も侮れないロック感を生み出してきたとも言える。(妄想だが)
でも、そんな日本も今揺らぎつつある。ニュースで報じられる憲法9条の改正についてだ。その改正を行った結果、日本が戦争しなくてはならなくなる可能性があるかどうか、今の時点では私にも分からない。ただ、反戦=戦わない=負け=それを選んでも戦わないという勝ちをつかみ取るものなのではないかと考えられる。
再び話を戻す。負けることは悔しい、それは誰にとってもそうだ。でも、恥ずかしいことではない。
今作の中心的な曲「ハートの破り方」は、長尺な7分を越える大作で、最もエモーショナルな楽曲でもある。その歌詞の“翼は片方では飛べない/でもそんなの気に病むことではない/ハートの破り方のように”という部分に、敗北という名の美しさが溢れ出している。
また話は逸れるが、もうひとつ、今TVで話題の、『世界で一番貧しい大統領のスピーチ』の絵本のモデルになったウルグアイのムヒカ大統領がいる。彼が行った、国連での演説が多数の人に感動を与えた。その彼が、今の日本人は本当に幸せなのかという疑問を抱いているという。そりゃそうだ。日本人である私自身も常にそういう疑問は湧いている。ただ、敗戦という地点から復興した日本がウルグアイになることは出来ない。”ifは禁物“である、いつの世も。負けを選んだ国の未来はどうなっていくか、その答えは負けを選んだ者の中にしか存在し得ないと私は思う。
そして、負けを選んだバンドはこれから、何を作りだしていくのか。差し当たっては、絶対的な勝利を歌う、偽りのロックを裏切り続けることだろう。完璧な勝ちなどに価値はないのだ。その勝利の裏側には確実に死があるのだから。
何が正しかったかは、分からない。ただ、おそらくそれで良かったのだろう。ダサくても、敗北を選択した先に勝利と言えるものはあったのだ。
きっと「メアリージェーン」の終盤、ハウス系のダンス・ミュージックのビートに乗り、聖歌隊の様なフェアリー・ボイスと近未来型のロボット・ボイスが反復する中歌われる“everything’s gonna be alright”という歌詞がせめてもの贈り物だろう。
バイバイの向こうのに本当のロックある。
心の中の色紙/Revival Records
