バンプと藤原基央は同じようで違う。作詞作曲を行っているのは藤原基央だから、バンプ=4人のメンバーと思うが、それも違うのだ。それが本作で証明されたことの一つだろう。
最初に言っておかなければならないことがある。それはバンプがロックであるということだ。バンプはポップだと捉えられることがあるが、バンプがポップであったことは一度もない。
例えば、Mr.Childrenはポップとロック両方の面を持っている。桜井和寿はそのどちらをも表現することができるのだ。楽曲的に言えば二組は共通する部分もあるが、この二人のアーティストとしてのスタンスは大きく違う。まず、桜井和寿の生み出す歌詞は、すべての人が共鳴できるような因子が含まれている。つまり歌詞の中に最大公約数的なエキスが入っていることにより、聴く人の立場は違っても、一つのサビと歌詞で同レベルの感動を与えることができるのだ。桜井和寿はそれができるアーティストで、すべてのリスナーに手を差し伸べる、みんなのミスチルの曲を作りだす。それがポップであり、同時に彼はそのポップという宿命を背負うことになるのだ。
反対に藤原基央は、決してみんなのバンプの曲を書こうとはしない。つまり彼の曲はどこまで行っても、彼の曲なのだ。無限にある公倍数の様な価値観の中から、一つを彼は歌う。彼自身が器用な人間ではないためとも言えるが、その彼が言葉にする一つの哲学が、それ以外の全ての思想を凌駕し、そちら側にシフトさせてしまう。それほどの希望が彼の曲にはあるのだ。翻せば、バンプが“みんなのバンプ”を歌うことは、このバンドの可能性を狭めることになると僕は思う。彼らがその道を選ばなかったからこそ、今のバンプがあると言っても良いのではないか。
この『Butterflies』というタイトルを見て私は、昨年、ケンドリック・ラマーが出した新作のタイトル『TO PIMP A BUTTERFLY』を思い出してしまう。関係はない。たまたまだと思うが、アーティスト的な思想では、その発想のリンクはあり得るのかもしれないと思った。ケンドリック・ラマーは米国の黒人ラッパーで、この作品は人種差別について、深く切り込んだものだった。その中で、彼は、成功する前の黒人を蛹に、成功を手にした黒人を蝶々に喩え、民衆はその蝶ばかりを崇めたてるが、蛹と蝶は元々同じ生き物なのにと言葉にしている。
バンプもバンドとして、名実ともに大きな蝶のようなバンドになったと言ってもいい。ただ、藤原基央はそれだけの側面を提示したい訳ではない。
今作の楽曲的な変化は、前作『RAY』でもその傾向は見られたが、ダンス・ビートを基調とした『Butterfly』や、全体を通してシンセサイザーを取り入れた楽曲が多くみられる。煌びやかで、冒頭の発言と矛盾すると思われるかもしれないが、ポップな機能をもった曲で構成されている。
もう一度言うが、バンプはロック・バンドだ。しかし、今この音楽シーンでバンプに求められているのは、バンプから出てくるポップな側面である。だから、バンプはロックでありながら、ポップを作りだすための道を探してきたのだ。
その答えがこの『Butterflies』だ。この作品は簡単に言えば、藤原基央が作りだした“コロニー”というファンタジーの世界で蛹から蝶々となったBUMP OF CHICKENというバンドに藤原基央が新たな魔法をかけたという表現が相応しいのではないか。蝶々になった後のバンプだからこそ、これほどまでに開けた作品を生み出すに至ったのだ。
バンプは新たなフェーズにきていると感じたのは、本作にも入っている「パレード」や「ファイター」という曲が生み出された辺りからだった。その頃から、いい意味で、バンプというバンドが藤原基央という存在を離れて一人歩きしていっているなと感じていた。
そう、藤原基央は今求められている、ポップな側面という要求に対して、自身の詩の中で新たな異世界を作りだし、そこに存在する蝶の様に生まれ変わった“BUMP OF CHICKEN”というバンドにその可能性を託したのだ。
もう少し説明するなら、今までの作品では、バンプという存在は現実世界に存在していた。そして、現実の世界の藤原基央が、作りだす歌詞の中で異世界を表現していたとしよう。逆に今作はその異世界自体にバンプが存在しているのだ。その中にいるバンプだからこそ、今作の様な表現方法、佇まいを持つことが出来たと私は思っている。
どのファンタジーの話でもあるように、その反対側には現実の世界がある。この物語のもう一人の登場人物は、バンプが始まった時から旅を続けてきたあの旅人=藤原基央自身だ。彼が作った異世界で旅をしていた旅人が、今度は反対に現実世界に出てきて、その中で色々なことに立ち向かおうとしているのだ。これが本作の見逃せない本流だと僕は考えている。
彼が旅をしている理由の一つは、公倍数のような群衆の中の、たった一人を助ける音楽を奏でるためだ。彼の曲はずっとその機能を持ち続けている。バンプというバンド在る無しに関わらず。
それは小さなことだろうか?いや違う。それは最も重いことだ。本作タイトルから、ケンドリック・ラマーを引き合いに出したが、彼は、不当な黒人差別について訴えかける。全世界的に見れば、それは大きな人権問題だ。ただ、黒人である彼にとっては別に大きなことではない。とても身近なことなのだ。つまり、それは彼にとって半径5m以内に起こっている差別なのだ。だからリアリティーがある。
藤原基央は人種差別のことを歌ってはいない。だから、小さなことしか歌っていないと言えるだろうか。
例えば私が、黒人差別ついて考えなさいとか、LGBT(性的マイノリティー)ついて理解しましょうと言われた場合。今この時点では、こう思う。「黒人の方は身近にいないので深くは考えられません。LGBTの方も身近にはいないので、完全に理解するところまではいきません」というしかない。何故ならそれは僕にとっての半径5m以内のリアリティーではないから。私が思うに、世間は大きなものに目を向けようと仕向けすぎなのではないか。大きな人種問題に目を向けようとか、LGBTなど新しい人間の価値観を認めようとか。範囲が広すぎるのだ。それをまた後生大事に、大切なことだとさも分かったふうな態度をとる方々。そんなに簡単に物事がわかるなら皆様はよっぽど頭が良いのだろう。
大きな視点に目を向ける前に、もっと大切なことが、自分の身近なところにあるのではないか。自分の近しいところにいる方の人権、そしてひいては自分の人権。それを疎かにしてまで、世界の大きな物事に目を向けるべきなのだろうか。
「流星群」の歌詞に“たとえ誰を傷つけても/君は君を守ってほしい”という歌詞がある。そう、自分の周囲直径10mの範囲を守れないものが、世界を守ることなどできないのだ。
つまりそれが、バンプが常々唄っている、生きるということなのである。
ここで旅を続けている藤原基央、彼もまた、「ファイター」の歌詞にあるように“空っぽの鞄をぎゅっと抱えて” そう、進んでいる。
藤原基央があの佳曲「ロストマン」を生み出したその時から、時は流れている。それがリアルな世界で起こっていることか、ファンタジーの世界でのことか、どちらかは分からない。でも、たぶんそれはどちらでもありえる。
貴方が戦おうするとき、バンプの曲は一緒に戦ってくれる。
そう、あなたが進もうとすれば、バンプの曲はあなた自身の味方になってくれる。
それだけは確かな事実だ。
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