GRAPEVINE『BABEL,BABEL』 | MUSIC TREE

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邦ロックを中心に批評していく
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―僕らには言葉なんて必要なくなくない?―

 『バベル、バベル』と2回繰り返す。
「なんで2回言うねん!」大阪の人にこういわれる。エセ関西人の私が大阪の笑いを語るつもりはないが、お笑い番組でひな壇芸人が同じ事を2度いうと、それを司会者が突っ込み、笑いを生み出す。『HUNTER×HUNTER』という漫画があるが、作者の富樫義博はダウンタウンの某番組で「何で2回言うねん」という突っ込みを見て、このタイトルになったらしい。笑いの世界ではよくある方程式だ。

 GRAPEVINE、レコード会社移籍後2枚目の本作は、一言でいうなら、“新しいことば”を手に入れた作品だと言える。それは何か。
 バインほど洋楽的なバンドはいないと僕は思っている。洋楽的ってなんだ。殆どの日本のロック・バンドは、洋楽のリズムやコード進行を引用して、楽曲を作る。だからこそ、どれだけ俺たちは日本のバンドだと粋がったところで、洋楽を抜きに語っては根無し草になる。
 だから、日本のロックは、洋楽に対して意識的でなければならない。がっつり、洋楽をガン見するか。横目で洋楽をチラ見する等、色々あると思う。バインは音楽的に言えば、前者だろう。でも、彼らはその次元にはもういない。言うなれば、洋楽的なロックをやっているバンドを、パロディー化した佇まいで演じ切るというスタンスだと僕は評している。
 特にそう感じるのは、田中和将は歌う時メロディ―に合わせ、英語っぽく歌うという方法を使うが、それを意識的にしている部分だ。これは、洋楽っぽく見せようとしているわけではなく、むしろ逆だ。極力洋楽バンドを演じることにより、それを対象化しているのだ。   
彼らは決してふざけているわけではない。その部分ではどのバンドより真面目である。それができるのは、彼らが持つミュージシャンとしてのスキルの高さと、結局は日本人のロック・バンドであるというコンプレックスを逆手にとり、ニヒルなかっこよさを追求し続けるというスタンスを貫いているからだ。

 思い起こせば、この田中の歌詞の洋楽っぽく聞こえます的な歌い方は、2005年の作品『デラシネ』辺りから顕著になってきたと思う。
彼がそのような歌い方をするもう一つの理由は、歌詞に意味を持たせないためだ。つまり、歌詞に意味を持たせずに、音楽そのものを届けようとする姿勢をずっと保っていた。
 しかしながら、私から言わせてもらえれば、田中和将のほどの稀代の詩人はいない。そういうような歌詞を書くのだ。意味の無い歌詞に意味が溢れ出し過ぎなのだ。つまり彼の歌詞は、隠しきれないエロティズムの権化だし。究極のチラリズムの教科書だと思うのだ。もっと言えば、見えそうで見えないミニ・スカートの中や、明らかに強調されたパイオツの谷間のような。見ないように努力しないと、いけない代物のようなものがそこあるのだ。    
その歌詞と亀井亨を主とした彼らのメロディが重なったとき。本能と理性が引き裂かれてしまう。彼らはそういう音楽を確信犯的に作る。だから、このバンドはこわいのだ。 
それでも彼らは今までずっと、意味を持たせない日本語の歌詞によって、洋楽的な価値を高めていった。つまりGRAPEVINEが求めていたのは言語を持たない音楽を作りだすことだった。それとは反対に私たちは田中和将の歌詞に意味を求め続けてきたのだ、ずっと。それが、私にとっては、日々の懺悔のような意味を持っていたし、また、デトックス効果にもなっていた。たぶんそういう効果があることはバイン自身もわきまえていたようだ。

 そんなバインと私たちはこの作品で一つの結論に至る。その本来なら意味通じないことばが、長い時間をかけて、遂にお互いの共通の言語に変貌したのだ。
だからこそ、あえてこれは何を歌っているのだろうと、歌詞をたどる必要など無くなった。ただ、この風のような音の振動に身を委ねて、その乱反射する言語の欠片を反芻すれば良いのだ。僕たちにはもう通じない言葉など無い。そう、はじめからそこに、ことばなど存在しなかったかのように。
 この『BABEL,BABEL』は、言葉を必要としない私たちが新しいことばを手に入れた瞬間の作品といえよう。そう、言葉を持たない私たちだからこそ、新しい言語を手に入れたのだ。
 
大事なことだから2回言いますよ。
言葉を持たないぼくらなら・・・




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