都庁はむかし、JR東京駅と有楽町駅のあいだ、高架線沿いに建っていた。
いかにも老朽化した建築物だった。
手狭なのもたしかだったろう。
それで、まだ貯水場があった西新宿への移転を決めた。
副都心ということばは、このときできたものだ。
ハコモノはハコモノを呼ぶセオリーどおり、都庁より先に京王プラザホテルができた。
住友ビルその他がつつぎ、70年代から西新宿は摩天楼の街になった。
それでも広い空き地がまだあり、劇団四季の「キャッツ」はこの空き地の臨時シアターで公演していた記憶がある。
映画「バットマン」に出てくるように莫迦高く威圧的に聳え立ち、おまけに内部が迷路化している都庁が完成したのは1992年ごろだろう。
税金無駄遣いあるいは垂れ流しの悪しきシンボルというわけで、メディアは「バブルの塔」「タックスタワー」と呼んで批判していた。
このころのメディアは、いまよりまだいくらかまともである。(この時期、いまの都知事は細川護煕元首相と癒着していた)。
湾岸エリアと副都心を高速道路で繋ぎ、併せて周辺を再開発するというのが、東(あずま)都知事時代に副知事だった鈴木俊一元都知事の構想であった。
これに中曽根元首相の民活構想がリンクしたのがバブル期であり、湾岸エリアをウォーター・フロントとか川の手などと呼んでいた。名づけ親はDツーあたりだろう。
高速道路のおかげで成田や羽田からの帰り道は、たしかに便利で近くなった。
しかし無秩序にタワーマンションその他を建てすぎたので、トーキョー・ ウオールが東京湾からの風を塞ぎ、ヒートアイランド現象の元兇となった。
タワマンはまた水害に弱いことを武蔵小杉のゲリラ豪雨が証明した。地震のときの共振現象はどうなのか?
本気で再開発しなければならないエリア、隅田川と荒川に挟まれたところとか、JR高円寺駅付近の高架線沿いとかは放置したままである。
つまりはビジネス=新自由主義にプラスにならないからである。
同年代の友人たちでも、こういうことを憂い、憤っているのはひとりくらいになってしまった。
ロッキード事件はおもしろがるだけで終わらせ、80年安保はベタ凪、政治への意識は低く、またその低さに居直り、高度成長期に揺籃、バブル期にはまあまあ潤い、現行社会制度にはなんとか間に合ったいまの60代後半は為政者=権力者たちの思う壺、いわば補完勢力だったといえる。
個人差はもちろんある。
ただ総体に戦後最初のダメダメ世代である。
その代表選手が岸田文雄66歳、以下同文だろう。
さいきん自らを咎めることが少なくない。